04年6月23日  

 論述の原稿と並行して進めていた模試の校正を提出。〆切地獄からやっと脱出。
 
 ネット書店で予約していた『リオリエント』(アンドレ・グンダー・フランク,藤原書店,2000)が届く。ウォーラーステインの世界システム論を西洋中心主義と批判し、同時代的な近世を提唱して話題になった書であるが、岸本美緒(山川出版の『現代の世界史』や新課程版の『詳説世界史』の教科書執筆者)の明清社会研究のように、既に日本の歴史学は同様の視点を踏まえた実証研究の段階にあり、東京書籍の『世界史B』など、そうした研究の成果を織り込んだ教科書もある。だから、当時は、何をいまさら感があって読みそびれてしまっていたのだった。さらに、「その先」を構想した訳者の山下範久の『世界システム論で読む日本』を読んでしまったし。

 が、この「読まずに分かった気になっている」っつーのが自分のダメダメな部分であるので、ルゴドの『ヨーロッパ覇権以前』を再読したのをきっかけに、『リオリエント』も読んでみて、ついでに『世界システム論で読む日本』も再読してみようかなと。

04年6月22日 〆切はまもらないと 

 21日〆切の原稿を、午前中にようやく上げて、メールにて送付。

04年6月15日 かつて愛したものたちが 

 近鉄とオリックスの合併話。野茂のバッファローズとイチローのオリックスである。野茂が去るまでのバッファローズは、わたくしが最後に、ファンとして応援していた球団だった。これについては、の、11日の項で書いたことがある。ミラクルバッファローズの大崩壊を目の当たりにして、日本プロ野球へのわたくしの関心は失われていったが、それでもその後、気になっていたチームはある。イチローが活躍していた時代のブルーウェーブがそう。監督にミラクルバッファローズの仰木彬、投手コーチに山田久志、打撃コーチには、バッファローズの安打製造機、史上最高の2番打者がいた。しかしそのオリックスも、ヤクルトとの日本シリーズを制したあたりから、壊れていった。野茂もイチローも、自分が愛したチームが、親会社の都合で、選手とファンのあずかり知らぬところで壊れてしまったことが、大リーグ挑戦の背景にあるのではないかという気がする。98年、イチローの発掘者として知られる三輪田スカウト部長の自死は、イチローのオリックスという球団との、あるいは、日本プロ野球との決別の決意を決定的にしただろう。

 野茂とイチローが去らざるを得なかった、その二球団が合併に合意したことが、日本プロ野球の病理を象徴している。

 滅びるものなら、滅びてしまえ、と、もの憂く想う。


 テキストの地図、ようやく完成してメールにて送付。
 続けて、21日〆切の論述問題関係の原稿にかかる。

04年6月14日 スポルティヴァ 

 7月号。木村元彦が、イラクでイラクサッカー選手団に同行取材敢行とまたまたやってくれている。この記事だけで買う。


04年6月13日 祝 

 息子たちが所属する武道団体の年に一度の少年大会が、本部道場で開催されるため、家族そろって大宮へ。長男は初めての参加。始めてまもない次男は、今回は見学。

 熟練度によって4部にわけて競技が行われ、もちろん長男が出るのは4部なわけだが、この4部だけで80人近くいて、意外に規模が大きい。しかも、正規の審番が3人ついて、準決勝からは本格的な旗判定の勝ち抜き形式。もっとこじんまりした内輪のものを予想していたのでちょっとびびる。綜合武道をうたっている団体なので、空手の部以外に、合気道の部、棒術の部もあって、それぞれ1回戦突破なら2点、優勝なら10点というように得点化され、その総合成績で総合順位も決める、ということも、当日会場に行って初めて知った。

 うちの長男はといえば、得意なはずの空手の部で、2回戦で型の順番を間違えるという痛恨のミスで脱落。普段あまり練習していない合気の部では、1回戦で消えてしまい、昼時には、かみさんが早朝から起き出して作った弁当を、かなり意気消沈して皆で囲むことになってしまった。

 残すのは、一番練習していない棒術の部だけ。

 ところがですね。この棒術の部で、あれよあれよとどんどん勝ち抜いていって、何と優勝してしまったとですよ。いや、びっくりした。父の遺伝子を受け継いで、すっかり本番に弱いタイプかと心配していたら、追い詰められたところで実力以上のものを出してくれて感激って、すっかりバカ親だな。

 子供のスポーツに、力入りまくりで人生までかけてしまう親馬鹿の気持ちが、ちょっとだけ分かってしまった。

04年6月12日 限定的イラストレータ使いです 

 歴史地図の仕事が残っていて、土曜日だというのに日中はずっとパソコンに向かって作業。河合塾の後期テキストに載せる予定の地図を3枚新規作成しなければならない。ところが、この3枚が、「環大西洋革命」「パックス・ブリタニカの時代」「帝国主義時代の国際関係」と、広範な地域を扱った地図ばかりで、当然といえば当然ながらその分作業量が多くなってけっこう大変。しかも、途中でアイデアに詰まると、パソコンの画面を眺めて腕組みしたまま平気で一時間くらい経過していたりする。結局都合9時間で1枚しか完成せず。ちなみに、河合塾の世界史の後期(完成シリーズ)テキストの地図は、ほぼわたくしが作成したものです。前期は岡田先生。

 夜8時より、やはり土曜日だというのに仕事をしていたの所長と西荻窪で落ち会い、半年ぶりに飲む。

04年6月10日 電禁本 

 横浜校に出講途中の乗換駅の書店で、「季刊サッカー批評23」と、「SFマガジン7月号」を購入。

 「季刊サッカー批評23」は、木村元彦の「サッカーの持つ求心力、ストイコビッチが描く夢」という都合8ページのためにのみ、購入を決断。

 ユーゴスラヴィアのサッカー事情を通して、ユーゴ問題の真相に踏み込んだ『』の著者は、日本の外務省が主導して、西バルカンの平和親善大使にストイコビッチが任命された出来事について、1999年のアメリカ主導のNATOによるユーゴ空爆の非道と、それを知りながらアメリカ追従外交を展開した外務省に対する痛烈な批判を吐露し、「単なるピクシーの政治宣伝利用であり、あまりにも浅薄ではないか」と疑いながらも、この案件を企画立案した外交官にインタヴューを敢行する。

 この、実際に合って話を聞く、現場を踏むということをおろそかにしないことが、木村元彦の偉いところである。それによって我々は、あの外務省にも、旧ユーゴ(西バルカン)の平和外交を推進する良心的な外交官がいることを、そしてその証言という形で、我らがストイコビッチが、いかに誠実に親善大使としての役割を遂行したかを知ることが出来たのだ。

一部分だけ紹介。

 親善大使の仕事の中で、セルビア・モンテネグロサッカー協会の会長でもあるストイコヴィッチは、「将来はどういう夢があるのか」という質問に、「世界の平和です。W杯の予選はその次です」と応えたと言う。これに対して木村元彦は、

「サッカー協会の会長としては何を理想論をと叩かれるかもしれない。しかし、本当の戦争を知っているフットボーラーは「W杯は戦争だ」などとは絶対に言わない。言うのはしたり顔をしたお気楽ライターだ」

 と辛辣に記す。面目躍如。「今年出す予定」という新書が、楽しみである。




 「SFマガジン7月号」は、4月15日の項でも記した、の「夢幻泡影第1章、バレエ・メカニック<後編>」がお目当て。前編の露悪的な描写からは、まさかこんな、喪失を美しく哀切に描く作品であるとは予想していなかった。だもんだから、帰りの電車の中で読んでしまったじゃないか。涙が止まらなくなってしまったじゃないか。恥ずかしいじゃないか。『』に所収の「ケルベロス」のラストをちょっと思い出してしまった。
あれも泣いたのだけど。




04年6月9日 やめてくれよう 
 ブッシュ・小泉会談で、「アメリカのイラク戦争の大義」を、小泉首相が賞賛し、それにブッシュが多いに気をよくしたというニュースを知る。
 気をよくもするだろう。無条件にアメリカのイラク戦争を賛美し続ける国なんて、今や、あのベルルスコーニが首相をつとめるイタリアと、日本ぐらいのものだろうから。それにしても、百歩譲って日本の国益のためにアメリカ追従外交を展開せざるをえないのだとしても、もう少し苦言を呈するだとか、距離をとるだとかという芸当はできないものか。
 いや、アメリカ追従論者に言わせれば、アメリカが世界中から批判され、国内においてもついにイラク戦争への不支持が支持を上回った今だからこそ、日本がイラク戦争を賞賛することで孤立したアメリカの歓心を買うことが出来るのである。これぞ、現実外交であるというのだろうなあ。嫌だなあ。
 でも、社長が白といったら、黒でも白という部下を喜ぶ社長が経営する会社は、倒産への道を全力疾走中であるというのが世の相場であるとおもうんだけど。
 あと、社長と自分と同種以外の全ての人に、忌み嫌われるのは、間違いないね。
 そういうわけで、こうしたことが世界に報道されればされるほど、日本に対する国際的評価は下がり、イスラム過激派の日本に対する憎悪は燃え上がり、われわれがテロに遭遇する危険も拡大する。その害悪と、アメリカへの追従外交のメリットは、釣り合うのか。

 

04年6月5日 とりあえず読了 
 『英仏百年戦争』(佐藤賢一,集英社新書2003)、『宗教改革の真実』(永田諒一,講談社現代新書2004)

04年6月4日 ホントに懲りない国だと思うぞ 
 イラク暫定政権の閣僚が発表されている。各方面で指摘されているように、結局アメリカの意向が国連の原案を押しのけてしまった形で、首相にはCIAとの関係を指摘される人物が。5月26日の項では、「それでも今回は」などと書いてしまったけれども甘かった。二度あることは三度あるというのが、どうやら世のことわりであるらしい。

04年6月3日 大ぼけです 
 5月31日の午前中、自転車で転倒。前方にふらふらゆっくり走っているおっちゃんのママチャリがいたので追い抜こうとしたら、いきなりそのママチャリが蛇行して進路を遮断。衝突を避けようとしてブレーキ操作をミスし、後輪が浮き上がって、前のめりに投げ出される。突っ張った両手と、その後右向きに転がったので右の肩を強打。
接触して転倒したサッカー選手がしばらく起き上がれないわけがよくわかった。
しかも、こっちは芝生ではなくコンクリート。

まじ痛かったっす。

時間がなかったので、そのまま駒場校に出講。講師室で授業の準備をしている時に、左腕がまっすぐ伸びなくなっていることを発見。外傷と痛みが右側に集中し、にもかかわらず板書をするのに必要な右腕は自由に動かせたのでそれで安心して左腕の異常に気がつくのが遅れた。
左の肘に違和感があり、一定以上に曲げたり伸ばしたりしようとすると、激痛が走って、それが去るまでしばらく全身の動きが止まる。
最初の講義はそのままおこなったのだけど、しばしばフリーズして授業が中断。これはあかんというので、講師室で急遽三角巾になりそうなものを探してもらい、どこからか出てきた風呂敷で腕を吊って2コマ目以後の講義を何とかこなす。
 さて帰宅という段になって、講師室の係りの人に、
「先生、すみません、追い打ちをかけるようですけどその風呂敷は私物なので、返却してもらうようにと言付かっているのですが」と言い渡される。

 無情、という言葉の意味を知りました。

 何だか何もかもが嫌になり、抗弁する気も起きず、黙って風呂敷の三角巾を外して校舎を出る。この間に左肘の症状は悪化しており、風呂敷の支えを失った左肘が激痛を伝える度に世の中を呪いながら、ゆっくりゆっくり歩いて、何とか駅に到達。その時、シャツの裾を折り返してそこに左腕を通せば、安定して腕を支えられることにやっと気づく。最低限の対策が出来たことで、惨めさと自己憐憫にどっぷり浸っていた精神状態から抜け出せて、少しは客観的に考えられる余裕も出来た。

 基本的には、やっぱり間抜けな笑い話だよなあ。というか、笑い飛ばすしかない話。
 
 翌日の6月1日は空き日だったので、朝一でかみさんに近所の整形外科まで車で送ってもらう。幸い骨には異常がなかったものの、左肘の靭帯が損傷しているので、2週間ほど、左肘は固定ということにあいなった。

 4日目の今日になって、ようやっと、キーボードを打てるようになって、これを書いてます。この間、メールの返信その他一切が滞った他、いろいろな人に随分余計な手間や、いらぬ心配をさせてしまいました。
 ご迷惑をおかけした皆々様、どうもすみませぬ。