黄河文明と殷周時代:問題

以下の文章を読んで空欄に当てはまる語句を答えよ。

 黄河文明は,アワ(粟)の栽培を基盤に中国の黄河流域に成立した古代文明である。前期は彩りを施したと言われる土器が出土し,文化と呼ばれる。また,文化が発見された遺跡の名にちなんで,文化とも言われる。この頃,長江流域にも,稲作を基本とする文明が存在したことが明らかになってきている。その代表的な遺跡は遺跡である。黄河文明も後期になると,と言われる研磨土器が出土するようになる。これを文化と言い,代表的な遺跡名から文化とも言う。土器の形態としては土器が特徴であり,粗製のと呼ばれる土器も多数出土する。この頃から,という集落が形成され,氏族共同体を基盤とする土地共有と共同農業が行われるようになった。さらにの中には交易活動を行って都市国家に成長し,他の邑を支配下におく大邑も現れた。そのような大邑の中から中国最初の王朝とされるや,大邑の遺跡が殷墟として発見され,その存在が確認された殷のような王朝が成立した。
 殷墟からはと言う文字を刻んだ多数の亀の甲や牛の肩胛骨が発見され,獣骨占いによって神意を占い,政治を行うが行われていたことが明らかになった。また殷墟からは優れた青銅器や,殷が交易活動によって繁栄していたことを裏付ける,南方産の子安貝や真珠なども出土している。
 殷に代わったではを政治制度として採用した。しかし周のは,社会の基盤である邑の氏族共同体社会を反映して,王侯との家臣団との関係はと呼ばれる血縁集団の上下秩序に依存したものであった。血縁秩序維持のためにはと呼ばれる規則が定められていた。
 周が異民族の侵入に伴い,都をからに移すと,周王の力が低下し,諸侯がを唱えて争う春秋時代となった。春秋時代には春秋五覇と呼ばれる五人の覇者が出現したとされるが,斉の桓公と晋の以外は,誰を覇者とみなすかは異論があり,楚の荘王にいたっては,周の権威を否定して王を称して対抗し,鼎の軽重を問うという故事のもととなった。
 晋の分裂を機に下克上の趨勢が一般的となり,諸侯が王を称して争う実力万能の戦国時代となったと考えられる。その背景には鉄製農具牛耕の普及による農業生産の向上が,をもたらしたことがある。また,農業生産の向上に伴い,経済活動も活発化し,武器を模したや,農具を模した・環銭(中央に孔・秦で使用)・蟻鼻銭(貝貨を模して楚で使用)などの青銅貨幣も流通した。
 

以下の各問に答えよ
問1 古代中国の殷墟について述べた次の文のうちから,誤りを含むものを一つ選べ
殷墟は殷後期の首都の跡といわれる。
殷墟をふくめ大小の集落は邑とよばれていた。
殷墟では宮殿や住居の跡だけでなく,大規模な殉葬墓も発見されている。
殷墟では占いの結果を記録した多数の竹簡・木簡が発見された。

問2 春秋末期から戦国にかけての生産力増大に関連して述べ文として誤っているものを,次ののうちから一つ選べ。
木綿の生産が盛んに行われていた。
農耕には牛が用いられていた。
農耕には鉄製農具が用いられていた。
交易の発展にともない,青銅の貨幣が使用された。