宗(1082-1135)
新法の改革をおこなった神宗の子。芸術に探い造詣をもち、画院に書家を集めて花鳥風月を彩色で写実的に描く院体画を完成。自ら最も優れた画家として『桃鳥図』などの傑作を残し「風流天子」と称された。しかし自己の風流を追及するために、当時の宋の国情を無視して民に重税をかけ、これを苦しめた。また遼を討つために新興の金と手を結んで挟撃策をとって遼を滅ぼしながら、金との協定を無視してその怒りを買い首都開封を包囲されて、息子の欽宗に帝位を譲って退位。この時は一年後の賠償金を約すことでなんとか危機を切り抜けたものの、現実にその約した賠償金を払う能力は無く、翌年、またしてもの背信に怒った金によって、ついに開封を占領され、息子の欽宗や高官、宮廷の秘宝などとともに、東北地方に連行された。これが靖康の変である。