第12回 仰木彬は「名監督」だったか?

 今回、仰木彬を取り上げるのは、彼が、いま合併問題の渦中にある近鉄バファローズオリックス・ブルーウェーブ、両チームの監督を経験した人物だということもあるが、彼の存在そのものが、今回の合併の遠因になっていると思われるからにほかならない。

 両チームでの監督経験者というのであれば、オリックスの前身・阪急ブレーブスで5回、近鉄で2回優勝しながら、ついに日本シリーズを制することのなかった西本幸雄こそ、取り上げるべき人物なのかもしれないが、当時ともに弱小チームだったブレーブスとバファローズを数度リーグ・チャンピオンとなる強豪に作り上げた手腕は、今回の合併劇とはほど遠い位置に鎮座している。

 仰木は、1987年シーズン最下位となった岡本伊三美の後を受けバファローズの監督となるが、それはコーチからの内部昇格人事で、次期監督と目される引退したばかりの鈴木 啓示へのつなぎ役だと思われていた。

 戦力も、阿波野秀幸、小野和義、村田辰美といった左投手陣はまだしも、右投手の中心と期待されていた佐々木修は伸び悩んでおり、クローザーだった石本貴昭も一時の力を失っていた。打撃陣も「いてまえ打線」誕生前で、大石大二朗・新井宏昌・オグリビーの三人以外は計算出来かねるレヴェルであった。

 それでも、88年は西武ライオンズと最終戦まで優勝を争い、「川崎球場10.19」という伝説を生み出すことになる。

 チーム防御率はリーグ2位だが、完投投手数がリーグ最少、セーブ・ポイントがリーグ最多というデータが示すように、投手陣のやりくりで勝ち抜いたシーズンだった。阿波野14勝、小野10勝、村田10勝、加えて2年目の山崎慎太郎が13勝、吉井理人がクローザーとして10勝24セーブという成績を残している。

 ちなみに打撃成績は、シーズン途中で中日からトレードで獲得したラルフ・ブライアントが34本塁打73打点、ベン・オグリビーが.311で打率5位という活躍をみせたが、金村義明の終盤の負傷や、大石の不調もあって、リーグ5位に過ぎなかった。

 優勝こそ勝率の差でライオンズにさらわれたが、つぎはぎ野球で3位に12.5差の2位という成績は、いまにして思えば、いかにも仰木的な監督初年度だったといえよう。



 翌89年、バファローズは、ライオンズに加え、親会社がオリックスに変わったブレーブスと三つどもえの優勝争いをする。

 チーム防御率1位、打撃成績2位とバランスのとれたライオンズに、打撃成績1位「ブルー・サンダー打線」のブレーブスと投手成績僅差2位のバファローズが挑むという図式だったが、バファローズは、西武球場でのライオンズ最終3連戦を3連勝するという大逆転劇で首位にたち優勝を飾る。特にブライアントの4打席連続本塁打(1四球を含む)で勝利した、ダブルヘッダー2戦・3戦目は後世に語り継がれる試合となった。

 この時期、バファローズの先発投手の中心は阿波野だったが、仰木は優勝のかかった88年、89年の最終戦のクローザーに阿波野を使っている。自身、西鉄ライオンズの黄金時代に選手生活をおくり、稲尾の鉄腕ぶりを間近に目撃していた仰木は、チームのエースを抑えとしても投げさせることに躊躇しない。エースとは、そういうものだという確信があったのだろう。

 数年後、あの、誰がみても先発型の野茂英雄が、オールスター戦直前という特殊な状況であったとはいえ、対ライオンズのクローザーとして使われることになるのだ。

 このような投手の起用法が、当時バファローズの投手コーチだった権藤博―現役時代、連投につぐ連投で肩を故障し、実働はわずか4年にすぎないーとの確執を生み、ブルーウェーブ時代に投手コーチ・山田久志との衝突の原因となる。

 90年、バファローズは、打撃成績こそリーグ1位だったが、投手成績が、野茂の加入がありながらリーグ5位と落ち込み、ライオンズの独走を許し、ブレーブスの後塵も拝し、3位で終了する。

 新人ながら投手タイトルを総なめした野茂(18勝8敗)は別として、阿波野(10勝11敗)、山崎(8勝10敗)といった先発陣が安定感に欠け、クローザーの吉井が9敗(8勝15S)もするという低調ぶりで、前年、前々年と続いた激闘の反動が現れたようなシーズンだった。

 91、92年、パ・リーグはライオンズとバファローズとの、文字通りの一騎打ちとなり(3位となるオリックス・ブルーウェーブに14.0差、13.5差をつける)、最終的には両年ともライオンズが優勝している。

 91年のバファローズは、77勝48敗、勝率616。92年は74勝50敗、勝率597。通常のシーズンならば十分優勝に値する成績である。先発の軸は野茂、クローザーに赤堀元之。打線は石井浩郎、トレーバーが中心となっていた。

 当時、多くのマス・コミが、森「管理野球」対仰木「放任」野球(あるいは「野武士野球」)という図式で対決を煽り、仰木自身もそれに便乗するような言動を行なうこともあった。

 対ライオンズということでは、エース・野茂をライオンズ中心のローテーションで先発させ続け、野茂対清原という対決を生み、「放任」ということでは、金村義明が、春季キャンプ中に飲み屋の従業員を連れて宿舎に朝帰りする仰木の姿を目撃したことがあるとか、仰木が試合前に外野グランドを走っているのは、前日のアルコールを抜くためであるとかいった話が、まことしやかに言われ(この二つのエピソードは事実だった)、仰木の「放任」は自分自身に対するものと揶揄されたりもした。

 選手を「放任」するということは、選手の自主性と責任に委ねるということであって、試合に出場出来るだけの技量とコンディションを維持できるかどうかは、各コーチの役目もあるが、最終的には選手個人の問題となる。試合に出るだけのコンディションにない、あるいは対戦チームとの相性が悪いと仰木が判断すれば、その選手は試合に出場することはできない。

 選手全員の技量も自己管理能力の高ければ特に問題は起きないが、必ずしもそうでない場合、試合毎に出場できる選手を決めていかなくてはならない。

 ブルーウェーブ時代の日替わり打線は、仰木流の必然である。

 仰木は、ライオンズを中心とした、いわゆる「熱パ」を演出しつづけ、この年退任する。後任は、あの鈴木啓示である。

 仰木・バファローズがライオンズと優勝争いをしていた頃、監督を上田利治から土井正三へ、チーム名をブレーブスからブルーウェーブに変えたオリックスは、かろうじてAクラスを確保する程度のチームに成り下がっていた。西本・上田両監督時代の栄光は過去のものになりつつあった。

 そもそも、松永浩美、石嶺和彦ブーマー・ウェルズ、それに門田 博光(89、90年)といった超強力打線でライオンズに拮抗していたチームを、守備力の強化がチームを強くするという考えの土井に任せたこと自体、チーム戦略の失敗だったと言わざるを得ない。

 打線が強力ならば、投手力と守備力を高めれば良いと考えたのだろうが、土井は、当時日本プロ野球で無類の強さを発揮していたライオンズ(現役時代、ともにV9ジャイアンツにいたライオンズ・森祗晶監督への対抗意識があったのかもしれない)と同じような野球を指向したがために、かえってブルーウェーブの長所を弱体化させ、ライオンズとのチーム力の差が歴然とあることを示すことになってしまった。同じ野球ならば、ライオンズが圧倒的に上なのだ。

 そこには、ライオンズにない野球でその牙城に迫ろうとした仰木との戦略の違い、というよりも意識の差、力量の差が存在する。

 94年、その土井のあとをうけ、仰木はブルーウェーブの監督になる。

 ブレーブス時代の主力選手は殆ど退団してしまっていたが、入団3年目の鈴木一朗がイチローとして登場し、恐るべき活躍をみせ、チームの打撃成績もリーグ1位(ちなみに本塁打は92本の最下位)となったが、ライオンズに7.5差の2位に終わる。

 95年、打撃陣では、イチローに加え、4年目の田口壮や、ニール、投手陣では、野田浩司、星野伸之、長谷川滋利といった先発陣に加え、クローザーとして平井正史、野村貴仁が大車輪の活躍をみせ、パ・リーグを制覇する。イチローの人気は昨年を上回り、空前のブームを生み出す。

 日本シリーズでこそ、古田敦也の存在と総合力の差でヤクルト・スワローズに4−1と完敗したが、投・攻・守ともスピード感溢れる新しい強豪チームの誕生を思わせるシーズンだった。

 翌96年もパ・リーグを制し、日本シリーズでは読売ジャイアンツを4−1で下し、仰木は初の日本一監督となる。

 3番イチローを中心とした日替わり打線が注目され(実際、レギュラーとして固定されていたのは田口、ニール、中島聡くらいで、藤井康雄、高橋智でさえ必ずしも先発メンバーではなかった)、投手陣では、前年の酷使が響いたと思われる平井が不調だったが、スワローズから獲得した鈴木平が予想以上の活躍をみせ、野村は前年以上の存在感を示してみせた。

 この後ブルーウェーブは優勝争いはするが、結局は勝ちきれないチームとなってしまう。打撃成績、投手成績ともそこそこだが、毎年首位打者になるイチロー以外に中心となる選手が出てこない。それまでは「マジック」と呼ばれた仰木の日替わり打線も思うような効果が出ず、選手間からも不満が噴出するようになる。
 この頃の仰木のような特殊な選手起用法は、うまくいっているうちは良いが、いったん結果が伴わなくなるとチームのまとまりを瓦解させる。

 97年、71勝61敗3分で2位。

 98年、66勝66敗3分で3位。

 99年、68勝65敗2分で3位。

 00年、64勝67敗4分で4位。

 01年、70勝66敗4分で4位。

 イチローが移籍し、仰木が辞めたブルーウェーブは、石毛宏典を新監督に迎えるが、投手陣は崩壊の一途をたどり、リー、伊原と監督が替わっても、いまだに苦しみの中にいる。

 一方、バファローズも鈴木、佐々木恭介と監督を変えていくが、契約交渉の拙さから野茂、石井といった投打の中心選手を失い、チームは弱体化する。梨田昌孝監督の2年目、01年に中村紀洋タフィ・ローズ(二人で100本塁打、200打点を超える)ら打撃陣の驚嘆すべき爆発で奇跡的に(防御率は5点を超えていた)優勝するが、またも日本シリーズで敗れてしまう。

 ここまで長々と仰木の監督としての采配・成績を振り返ってきたが、その特徴をまとめると、つぎのようになる。

 バファローズ時代

 a)スターティング・メンバーはキャッチャー以外、基本的に固定。

 ex.大石、新井、ブライアント、リベラ、金村、鈴木、中根、村上、(捕手)、真喜志といった打順。

 b)エース投手はライバル・チーム(具体的にはライオンズ)中心のローテーション。重要ゲームではクローザーとしての登板もある。前半期は阿波野、後半期は野茂。

 c)クローザーは若手でボールにキレのあるタイプ。リードしている場合のみではなく、リードされている場面での起用もある。前半期は吉井、後半期は赤堀を起用。

 d)イメージとしては、放任主義、野放図。

 e)弱体したチームを立て直すが、仰木の辞任後、チームは下降線を描く。

 ブルーウェーブ時代

 a)主力選手(田口、イチロー、ニールら)以外は、予告登板の相手投手をみて日替わり打順を組む。当時「他球団でもレギュラーになれるのは、イチロー、田口くらい」と、仰木は発言していた。

 b)継投を念頭においた投手起用。

 c)後半期はクローザーを特定できず、そのため、先発・中継ぎ・抑えという役割が曖昧となり、軸となるべき投手が不在となる。

 d)ブレーブス時代の中心選手がいなくなったチームを立て直し、パ・リーグ2連覇、日本シリーズも制するが、後半期はBクラスに落ち込む。

 仰木は、バファローズ時代・ブルーウェーブ時代ともに、初年度2位で2年目に優勝(ブルーウェーブでは3年目も優勝)しているが、その後は優勝争いをしつつも、徐々に順位を下げていくことになる。

 前年までさえない成績に終始していたチームを、就任1年目に、ブライアントやイチローといった、ずば抜けた新戦力が現れたことも大きな要因であろうが、優勝争いが出来るだけのチームに引き上げ、更に翌年には優勝してみせた手腕は正当に評価しなくてはならない。

 その中心選手たちがいなくなると、チームは優勝から遠ざかるが、それは、ブルーウェーブ時代のように、選手の世代交代がうまくいかなかった場合もあったが、バファローズ時代のように、優勝したときよりも、その後のほうがチームの完成度、能力は高かったにもかかわらず結果が伴わなかった場合もある。

 優勝するかどうかは他の5チームとの相対的な関係でしかなく、必ずしもチーム力の高いときに優勝できるわけではないのだ。

 実際、セ・リーグを連覇するチームはここ10年間出ておらず、長期間優勝争いを続けるチームをつくることが、いかに至難であるかを証明している。水原−川上・ジャイアンツや西本−上田・ブレーブス、広岡−森・ライオンズは希有な例であり、鶴岡・ホークス、三原・ライオンズ、野村・スワローズがそれに対抗しうる程度である。

 仰木は使えると決めた選手は、投手、野手に関係なく徹底的に使おうとする。投手でいえば、野茂は簡単につぶれなかったが、阿波野や大久保はつぶれ、平井は復活するまでに多くの時間を要し、野村もジャイアンツに移籍後は並の投手になっていた。

 チームはもちろんだが、選手が何年間も好成績を修め続けることは簡単ではない。投手が単年しか活躍できない、あるいは、つぶれてしまうという次第は、なにも仰木のチームに限ったことではない。

 たとえば、野村・スワローズは、セ・リーグを4度制覇し3回日本一になっているが、通算で100勝以上あげた投手は、誰も出ていない。川崎、岡林、西村といった当時の先発投手たちは、2、3年をピークにして活躍するが、それ以降は鳴かず飛ばずとなる。ただ、これらの投手たちのピークとなる年が−結果的に−ずれていたことと、クローザーとして高津臣吾が存在しつづけたことが、スワローズの成績を支えることになる。(むろん、最大の存在は古田敦也という稀代の捕手である)

  前述しているように、「放任」が仰木野球のキイ・ワードならば、能力のある選手を育てるのではなく、能力のある選手を使いきることこそ、仰木野球の真骨頂であり、能力を使いきるとは、その選手のポテンシャルを使い果たすことであるから、仰木のチームで投手がつぶれるのは当然の結果なのである。野茂や長谷川が簡単につぶれなかったのは、彼らほどの投手だからだったからであり、他の理由はない。

 野手についても同様で、オリックス時代、仰木にはイチロー(と田口、中島)以外に信に足る野手はおらず、あとは残りの選手の文字通りの使い回しに終始していたが、これも選手のポテンシャルを仰木流に使い果たすというやりかた以外の何ものでもない。

 仰木時代のバファローズとブルーウェーブが似たような成績の推移をみせてしまうのは、けっして偶然ではないのだ。

 仰木は、それまで能力を発揮しきれていなかったチーム、選手のポテンシャルを見事に使ってみせる。だから、就任してすぐ好成績をあげることができる。仰木に3年計画など必要ないし、必要とするようなチームでは監督にならないだろう。

 ただ、ポテンシャルを使い果たされたチームは急激に下降線を描くことになる。

 バファローズ時代後期、野茂や石井クラスの選手が入団してきたためにライオンズと凌ぎを削ることができたが、優勝はできなかった。その後、チームを引き受けた鈴木は、仰木によって、バファローズのポテンシャルが使い切られていたことに気づいていなかった。あの散々たる成績がそれを物語っている。

 プロ野球の監督の使命はチームを優勝させることであって、そのために選手を育てる(あるいは、その結果として選手が育つこともある)のだ。けっして、その逆はない。極論すれば、チームが勝てば選手などどうなっても良いのだが、選手がどうにかなってしまうとチームが勝てなくなるから、選手を大事にするにすぎないのだ。

 仰木のように、選手を育てることなど、まるで興味のない監督でも優勝はできる。仰木が、野茂やイチローを育てたかの如く世間ででは言われているが、なるほど、鈴木や土井では野茂やイチローの相手になるはずもなかったが、このふたりは、勝手に育ったのであって、仰木のしたことといえば、野茂とイチローが育っていく邪魔をしなかっただけにすぎない。

 誤解されないように付けくわえておくと、この、「邪魔をしない」、ということも、実は日本スポーツ界では至難のことで、仰木のその仕事ぶりは抜群だったといえるのだ。

 仰木によって、そのポテンシャルを使い果たされたバファローズとブルーウェーブは、いまも新しい力を蓄えられないでいる。仰木彬は効き目の強い、即効性の良薬だったかもしれないが、その副作用も半端ではなかった。それに気づかない人たちが、その副作用に苦しんでいるチーム同士を結びつけようとしているのが、今回の合併である。

 まず、両チームをその副作用から回復させることが急務のはずだが、誰もそれをしようとしていない。梨田や伊原でさえもだ。

 中村紀洋や谷佳知だけではどうにもならない。


◎仰木彬監督……評点6.5

◎球団経営者が誰も球団赤字の責任をとらない日本野球界……評点1.5