特集 私のアンソロジー
 抒情組曲 ミステリー・編

中村富由彦 選

 さて、公表の「抒情組曲シリーズ」。今回は異色のミステリー編である。
 推理小説が一部のマニアの手を離れ、多数の一般読者の中に解放されたのは昭和三十年代前半のことである。今を去ること四半世紀前というのだから、随分昔の話になる。例えば松本清張の「点と線」がベストセラーになった昭和三十二年の流行語を「現代用語の基礎知識」で引いてみると、「神武景気」「バイパス」「一〇〇円銀貨」などに出くわすことになる。その頃僕の父は熱海の酒屋で丁稚をしていたし、母は都内のとある会社重役のお屋敷で女中をしていた。新幹線も東名高速も地下鉄もなく、新京成には北習志野駅がなかった。現在の船橋市松が丘界隈は、当時豊富村古和釜地区と呼ばれ、欝蒼と繁った松林の中にぽつりぽつりと農家のわらぶき屋根が見え隠れする未開地であった。樹間をむささびが飛び交い、野生のうさぎ、りすはもとより、いたちやおこじょも棲息したという暗闇の時代である。

 ま、とにかくそういった時機に、大衆小説の新しいジャンルとして台頭してきた推理小説が、うまく大衆読者の志向を捕えたというのは確かなようだ。高度成長前夜の、まだまだ貧しかった庶民の生活。そして、それを支えているのは、あの長く苦しい戦争を経験してきた世代の人たち。そう、箸が転んだだけで悲しいと感じるあの……ま、そういった人たち。

 幸か不幸か、そんな時代背景の中で産声を上げた「日本ミステリー」だから、作家(あるいは読者)が、完全に世代交代しない限り、あの一種独特のイメージは拭い切れないのだろうし、またそこが僕のような読み手には魅力なんだろう。

 このアンソロジーの冒頭を飾る清張の「火の記憶」などは、やはりある種の気構えを持って向わないと、とても読むに耐えない作品になってしまうのかも知れない。あまりに時代背景と密接な関わりがあるだけに今読むと異和感を禁じ得ない。ただあくまで編者は、清張作品をノスタルジーで楽しむというのではない。も、何も、当時僕はまだ生れていないのだから、ノスタルジーもへったくれもない。ようするに僕自身が、箸が転んだだけで……ま、そういった人だから。

 「青い帽子の物語」これもまた古い。ただ土屋隆夫という人も、本気で書くとこんな破滅型の小説になってしまうからおもろしい。「本格派」と言われると、いやいや、と照れて「社会派」と言われると、とんでもない、とおこるし、わからない作家である。今度こっそり「抒情派」と言ってやろう。

 「海に沈んでいった微笑」の作者は実はアマチュアで、僕とも親交のある人だ。これはこのA.M.マンスリー誌上に以前掲載された作品なので、読んだ人も多いかと思う。「火の記憶」での、ボタ山に棄てられた炭が自然発火して燃焼する火、「青い帽子の物語」での軍医の青く古くさい将校帽、この作品でそれらに相当するのが除虫菊の白い花の群生である。一見たわいない一場の風景が、実に印象的なオブジェになっている。作者の非凡なセンスに敬服する次第である。

 「便り」は夏樹さんの作品の中では、かなり地味な仕上げになっている。どんでん返しを期待した向きには、肩透しを食った気分だろう。ただ、何でもないトリックをここまで生かし切れた点で評価すべきである。最後の一行の心地よさはどうだろう。「推理小説にはさまざまのテクニックがあり、ルールがある。でもそれらは結局手段であって、窮極では、私は自らの感動を読者に伝え、分ちあいたくて書くのではないかと思う」とは、作者自身の言葉である。

 「うつぼの筐舟」は、当時水上勉が乱作していた大方のミステリーのパターンを代表する作品ということで選んだ。この作品に至っては、これこそ昭和三十年代の産物という他はない。あの時代に、アロンアルファでべったりはりついてしまったようだ。作者も背を向けてしまった。

 拙作「白鳥の歌」は、読み返すとただただ懐かしい。その若さに思わず茫然と立ちつくす僕である。富由彦も枯れたな、と誰か言ってくれないかなあと思う。まだまだ森村誠一あたりの影響を随所に窺わせる作品で、当時の持ち有る限りのテクニックを精いっぱい駆使したことがひと目でわかる力作である。作者はなかなか、これに背を向けられないでいる。

 「銀座心中」は、現代版近松物語。「六本木心中」、「向島心中」と続く“心中シリーズ”第三陣である。組曲のフィナーレにふさわしい、圧倒的な感銘を残してくれる名作。ふた昔前の都会のイメージは、こんなにも退廃的、虚無的なものだったのか。それにしても、「心中」っていい響きだなー。

   収録作品リスト
 「火の記憶」 松本清張
  新潮文庫「或る『小倉日記』伝」所収
 「青い帽子の物語」 土屋隆夫
  角川文庫「青い帽子の物語」所収
 「海に沈んでいった微笑」 油木雅之
  A・M・マンスリーNO79掲載
 「便り」 夏樹静子
  文春文庫「アリバイの彼方に」所収
 「うつぼの筐舟」 水上勉
  角川文庫「うつぼの筐舟」所収
 「白鳥の歌」 中村富由彦
  A・M・マンスリーNO83掲載
 「銀座心中」 笹沢左保
  角川文庫「六本木心中」所収