朱子(朱熹)(1130-1200)
『大学』『中庸』『論語』『孟子』を『四書』と称して儒教の根本経典とし、周敦やその弟子の・程兄弟の学説を集大成して、儒学として空前絶後の思弁哲学・実践倫理学である朱子学を築いた。その学問はまた、宋学とも、道学とも、性理学とも言われる。宇宙万物は理(宇宙の根本原埋)と気(宇宙の根本物質)からなるという理気二元論を説き、人間に宿った根本原理が性であるとして、性即理(性はすなわち理である)とする。ところが人間は人欲にじゃまされて、自分の中の根本原理である性に従う、すなわち宇宙の根本原理である理に従って行動することが出来ない。では、人欲を去って天理につくす、性即理の境地に達するためにはどうするべきか。それは格物致知(事物に即してその理を極めることで認識を完成する)によるのである…とした。理をブラフマン・性をアートマンとウパニシャッド哲学の用語に置き換えてみるとこの性と理は理解しやすくなる。また、性即理の境地にいたった、つまり仏教で言う悟りを啓いて仏陀になることが、朱子学でいう聖人になることであるが、そのために精神的修業よりも、学問研究(格物致知)を強調したことから、朱子学の主知主義的傾向が言われるわけである。一方で彼は実際面では、華北の地を女真族の金に占領され、反撃もままならない当時の南宋の屈折した雰囲気を代表して、華夷の別を激しく強調し、また君臣間、親子間の道徳を強調する大義名分論を唱えるという、なかなかに反動的な主張も展開している。彼の学問は生前には政敵によって偽学として禁じられもしたが、後に儒学の正統となって朝鮮・日本にも伝わり、日本では特にその大義名分論が評価されて江戸幕府で官学となった。もっとも江戸期の日本の儒学者は、イエズス会士によって欧州に紹介され、ヴォルテールを感嘆せしめたという、理気二元論や性即理説などには歯がたたず、李氏朝鮮の大儒学者李退渓(イ・テグ)の著作に解釈を頼っていたりする。