西欧世界をキリスト教共同体として結びつけてきた教皇権は,十字軍運動の失敗によって威信が低下し,14世紀にはアナーニ事件教皇のバビロン捕囚でフランス王権に屈し,教皇のバビロン捕囚解消後も教皇庁が分裂するシスマを引き起こして動揺した。同じ14世紀にはペストの流行がかえって農民の地位の向上を引き起こし,火砲の普及による戦術の変化によって騎士の役割が低下するなど,封建領主層の没落も進んだ。こうした状況下で王権が伸長し,諸侯や騎士,領域内の教会など,自立的であった諸団体(社団)に対する統制を強めていった。一方,15世紀半ばに皇帝位を世襲するようになり,結婚政策で領土を拡大したハプスブルク家は,16世紀前半にはカール5世(スペイン国王カルロス1世)のもと,皇帝権と教皇権の下にヨーロッパを統合し,オスマン帝国に対抗しようと試みた。しかし,これには王権を伸長しつつあったフランスが反発してイタリア戦争が激化し,カール5世のヨーロッパ統合の夢は潰えた。各国は国益の確保を求めて複雑な外交的駆け引きを繰り広げ,外交官を常駐させるようになった。また,おりからの宗教改革は,キリスト教会の分裂をもたらし,ここでも中世的なキリスト教共同体の統一性は失われた。各地で宗教戦争が続く中,ヨーロッパは領域を持った国家が主権を主張して分立する,主権国家体制に移行していく。
 そして西欧世界において主権国家体制を確立させたのが,三十年戦争ウェストファリア条約であった。神聖ローマ帝国内の領邦国家にも主権が認められ,皇帝権は失墜した。アウグスブルクの和議が確認されてカルヴァン派が公認されたことで,キリスト教世界の分裂も決定的となった。主権国家は主権国家平等の原則の下,条約を結んで相互の関係を規定し,グロティウスが提唱した国際法によって秩序の維持を図るようになったのである。
 近世の絶対主義国家は,王直属の常備軍を備えた王権が,王権神授説で皇帝権と教皇権からの統制離脱を正当化すると共に,中世以来の社団を統制下に置き,その上で官僚制度を整備して,行政や司法の中央集権化を図る社団国家であった。旧来の諸団体は解体されず,身分秩序も維持され,諸団体の構成員は国家よりも自分の属する団体に強く帰属意識を持ち,個々人の国家による直接支配は困難で,ここに絶対王政の限界があった。
 主権国家体制が成立し,国家の役割が重要になるとともに,国家や公共をめぐる議論が盛んになった。そうした中で,自然法思想に基づき,自然権を持つ個人が社会契約によって国家を形成するという社会契約説が提唱された。社会契約説では,個人が国家を構成する最小の単位として直接国家と向かい合うことになる。ホッブズが提唱し,ロックによって名誉革命を正当化するものとして改変された社会契約説は,アメリカ合衆国建国の理念となった。その影響を受けたフランス革命は,このような理念を実現するために中間団体を解体し,個人が国民として直接国家と結びつく国民国家の形成を目標とした。このような国民国家が生み出す国民軍の強力さは,革命戦争ナポレオン戦争によって明らかになった。その結果,プロイセンなどの君主制国家においても,社会契約説を否定しつつも,個人を国民として直接支配すべく,農奴解放などの改革に取り組むことになる。そして19世紀半ば,資本主義生産体制をいち早く確立し,国民経済の確立と国民国家形成に先行したイギリスとフランスの優位が明らかになると,後発資本主義諸国も,それぞれの歴史的伝統に束縛されながら,国民国家形成を模索した。その結果、イギリスとフランスの先進地域が自由主義、ないしは主権在民原則に基づく民主主義的な国民国家を形成したのに対し、後発の諸国では、一君万民を説く近代的天皇制の下で国民国家形成を目指した大日本帝国に典型的に見られるように、権威主義的(国家主義的)国民国家が成立していった。
1870年代以降は,国民教育によって国民意識を涵養した列強が,植民地獲得を争う帝国主義の時代を迎えた。しかし,帝国主義の帰結としての第一次世界大戦と第二次世界大戦は,国力の全てを動員しうる国民国家間の戦争が,破滅的な損害をもたらす総力戦になることを明らかにした。西欧は,自らが生みだした主権国家体制と国民国家の絶対性を否定し,統合の道を模索し始める。


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