第2話 怒りと悲しみの『第9』(2)

 数少ない貴重な読者の皆さん、ご無沙汰してました。

 前回の原稿から18カ月あまり経ってしまった。

 なぜこれほど時間が経ってしまったのか。

 理由はいろいろあるのだけれど、いずれにせよあれこれ悩んで時間が経てば経つほど、再開もどんどん難しくなるものだ。

 そこで、何事も現実的に処理する筆者は、ある時点でこのホームページの存在自体を放念することにした。

 しかし、その極めて現実的な目論見も、人間関係を重要な行動原理とし、かつ筆者の行動パターンも熟知するつれあいの監視に阻まれて実行に移せず、膠着状態に陥っていた。

 それが最近、パソコンで遊んでいるときに魔が差して、怖い物見たさに『別館』のブックマークをクリックしてみたら、まぼろしのように「古典音楽逍遙」の文字が・・・

 山内先生の気の長い無言の督促に背中を押された気がして、次の瞬間には書きかけの本稿を開いていた。

 山内先生、ごめんなさい。

 遙かなる前回、『第9』をテーマに日本の音楽文化の問題について少しばかり考えてみた。

 もともと、この項を書き始めたときの構想では、弦楽四重奏やピアノソナタ、ミサ・ソレムニスといった、ベートーヴェン晩年の様々な分野の作品と比較しながら、『第9』の特徴や魅力を探ってみよう、さらに進めて「私のベートーヴェン論」を書いてみたい・・・と思っていた。

 ところが、書き始めてすぐにあるニュースを目にしたために、ストーリーが当初の計画から全く変わってしまった(同時にタイトルも変わった)。

 そのニュースとは、東京都交響楽団(都響)/のメンバーの給料のことだったのだが、かいつまんで言えば、東京都が進めている都職員の処遇制度見直しの一環として、都響にも人事査定を取り入れて現行の年功主義的な給料体系を実力主義の給料体系に変えるというものだった(朝日新聞2004年1月7日)。

 このニュース、かなり後だが日経にも載っているのを見た。

 恐らくその他のメディアにも出ただろうし、ご存じの方も多いと思う。

 不惑を目前にして、遅ればせながら日本の文化状況にささやかな問題意識を持ち始めた筆者としては、このニュースに多くの点で挑発された(と勝手に思った)。

 筆者は極めて挑発に弱いので、この場を借りて何某かの応答をせねばならん、といきりたってはみたのだが、いかんせん問題が多岐に渡るうえ、答えもあるようなないようなで、悲しいかな当時の筆者には自分の考えをまとめる力がなかった。

 今になってもその力が無いことに変わりはないのだが、この項で糞づまっていては次のテーマへ進めないので、かっこよく結論をまとめることはあきらめてとりあえず書けることだけ書いてしまうことにした。

 まず最初に、「オケマンの給料を年功型から実力主義へ変える」というニュースの内容自体、皆さんはあれっ?と思われるのではないだろうか。
音楽家のような職業は、サラリーマンと違ってもともと実力主義なんじゃあないの?

 確かに、オケの入団オーディションなどは(芸大の入試やコンクールと違って!)基本的に実力主義で決まるようだが、入ってしまった後はほとんど年功的に給料はあがっていく(ただし、首席奏者は契約が違うので、給料もちょっと違う)。

 なぜそういうことになるのかというと、大きな理由として二つ指摘できる。

 一つは、オケは様々な楽器で成り立っていて、それらを横並びで比較して査定するということはほとんど不可能だということ。

 もし、それを無理矢理やったとすると・・・

 (フルート)「いやあ、今日のショスタコ、僕のソロで決まったよね。ハンカチ出した人、20人ぐらい見えたよ。」

 (オーボエ)「数えたのかおまえ。客を泣かせるのは、うちらのコーラングレよ。

 どの曲だってそれ一本にかけてんだから。指揮者だってアンコールの時、最初に立たせてくれたじゃん!」

 (ファゴット)「えーっ!君たちは目立つから良いけど、ショスタコのファゴットは死ぬほど大変なんだよお。酸素ボンベ必要なんだから。」

 (ピッコロ)「ファゴットなんてボコボコ言わせてるだけじゃん。」

 (クラリネット)「みんな比較がおかしいんじゃない?一番たくさん音符吹くのはクラリネットなんだからね。おれスコアで数えてあるから。」

 (事務局)「じゃあ今月の給料は、クラリネット>オーボエ(コーラングレ)>フルート>ファゴットでいいね。」

 とか、

 (ヴァイオリン)「うちのヴィオラはヴィブラート甘いけど、音程も甘いねえ。」
 
 (ヴィオラ)「でも今日、最後の2小節はどのパートよりも早く弾けたよ。昨日の夜、ヴァイオリンに負けるなっ!てみんなで特訓したんだから。」

 (チェロ)「え?うちはコンマスのテンポに合わせたんだよ。じゃあ、明日は一番早く弾いてやる!」

 (コントラバス)「ねえ、いま思いついたんだけど、ファンファーレの前に楽器回すと査定上がるのかなあ。去年、サマーコンサートでやったらけっこう受けてたじゃん。」

 (事務局)「じゃあ、明日、一番最初にFにたどり着いて弾き終わったパートから給料も高くするということで。」
ということになる。

 もう一つの理由。

 それは、はっきり言ってしまえば、労働組合的な横並び意識が非常に強いこと。

 昔から音楽家や俳優の中には左翼的な思想傾向をもつ人たちが非常に多かった。

 世間知らずな人たちが多いから、という訳ではなくて(それもないことはない)、もともと歴史的に、音楽家や俳優などという職業は長い間、社会的地位が低く、経済的にも苦しかった。

 しかも、同じびんぼう芸術家の中でも、画家や小説家などよりずっと左に傾く比率が高い。

 それは、音楽家や役者などは一人で活動することができず、誰かに集団で雇われて初めて仕事として成立するものだからだろう。

 根源的なのである。

 みんなが自分の給料になんとなく納得している今の日本では、労働組合運動というものが根本的な問題点に苦しみ、崩壊の危機にあるが、オケの労働組合だけは最後まで活動を続けると思う。

 労働運動といえば、そもそもオケマンの給料は高いのか低いのか。

 実態をご存じの方は多くない(というかほとんどいない)と思うが、件の記事によると、都響のメンバーの給料は都立高校の教諭なみという基準で決められているそうだ(高校教諭の給料も想像がつかないが)。

 もちろん、オケによっても大きな差があるのだが、都響は読売日本交響楽団(読響)と二位争いをしていて、日本の中では「高い方」に属する(一位はもちろんN響ね)。

 では、高校教諭並という都響の水準や、都響が第二位という日本のオケ全体の水準は高いのか低いのか。

 世間の人たちの評価は大きく分かれるだろうね。
筆者は、簡単に言ってしまえば、まあそれぐらいでちょうどいいんじゃあないの、と考えている。

 オケマンの実態はだいたい知ってるし、彼らの給料が「高い」とは決して思わないのだが、そもそも「給料は一般に"もう少しクレよ"という水準に落ち着く」というのがかの有名な給与均衡の理論といわれるものだ(ウソ)。


 一方で、世界の音楽界の常識の一つとして「オケの実力は給料に比例する」という法則がある(これはホント)。

 この法則に立って考えれば、逆に、給料を上げれば日本の演奏水準も上がる、ということも期待できる。

 しかし、冷静な状況判断に立てば、社会全体の芸術への富の配分という意味において、オケという業界は決して割を食ってはいない(ぜいたく言うな)と言わざるを得ない。

どんどん音楽的でない方向へ話が進んでいるが、ようやくトップギアに入ったので、次回もこのまま駆け抜けたい。(つづく)