A.M.MONTHLY NO.82 1980.5 P105

    白鳥の歌  中村富由彦


 「駅までだろう? 入れよ。」
 そう言った竹村の息が湿った外気の中を白く漂い、消えていった。夕方を過ぎて突然、春先にしては冷たい雨をバラバラと落し始めた空に、新山哲が物憂げな目を向けた時だった。
 「ああ、すみません。」
 仄かな酔いが初対面の気遅れを解いたのか、哲は素直に先輩の差し出した傘の下に入っていった。
 肩を並べて歩きながら、竹村は哲が大事そうにかかえている紙袋に目をやった。その中には、宣告の新入生歓迎コンパの最中に彼がためらいがちに披露した、数多くの白鳥の写真を収めたアルバムが入っている。
 「どうして白鳥ばかりそんなに?」竹村の問いに、「子供の頃、近くの公園に白鳥がいて、姉に手を引かれてよくそいつを見にいったんです。それからなぜか、白鳥の魅力に取りつかれて……。」と控え目に答えた哲だった。
 (男のくせに、変な奴だな。)
 アルバムを見た時はそう感じた竹村も酔いが醒めてみると、ひとつのテーマをここまで熱心に追いかけ、撮り続けている彼の姿勢は、今までの写真部になかったものであり、哲の加入はきっと、他の面白半分の部員達を大いに刺激してくれるだろうと、思わず部長らしい思惑に、口元を綻ばせていたのだった。
 「これからも、白鳥を撮り続けるんだろ?」
 「ええ、そのつもりです。」
 哲はまたも控え目に答えた。
 (ただしこいつ、今ひとつ覇気が足りないな。)
 そう思って一瞥した哲の横顔が、その時パッと昼間のように明るくなった。反対方向から一台のタクシーが、もの凄い勢いで突っ走ってきたのだった。
 けたたましいクラクションとほぼ同時に、竹村は危く左手で哲の腕を掴み身を引いた。その時傘が車体の一部に触れ、乾いた音を立てた。急ブレーキと共に車が止まり、運転手が窓から顔を突き出した。
 「バカヤロウ、気をつけろ!」 
 二人を口汚なく罵った後も、運転手は傘の当った部分を、傷でもつかなかったかと身を乗り出して調べている。哲は竹村に腕を引かれた時に手から滑り落ちて雨に濡れた紙袋を、慌てて拾い上げた。その時、タクシーの後部席からこちらを見ている二人の客の姿が、彼の目に入った。車内は暗かったが、それが背広姿の男と派手なみなりの女であることだけはわかった。
 運転手はもう一度二人を睨みつけ、大きく舌打ちすると、ようやく車を走り出させた。
 一瞬、街燈の加減で車内の様子がパッと浮かび上った。そして哲の視線が後部席の男の顔に帖り付いたのは、その時だった。赤い尾灯が雨の向こうに滲んで見えなくなるまで、哲はじっと車の行方を睨んでいた。
 いつまでたっても歩き出そうとしない哲に傘をかざしながら、竹村は彼の表情に、何か普通でないものを感じていた。
 「あいつ……!」
 車の消えた方向にじっと目を据えたまま、穏やかならぬ口吻でそう呟いた哲は、竹村に覇気の無さを感じさせた先刻までの彼とは、全く別人のような豹変ぶりであった。竹村は半ば気圧されるような思いで、そんな哲を見つめていた。
 四月十八日。東京S大学の三年生で、写真部所属の竹村幸延は、新山哲のその夜の印象を、克明に日記に記している。





   K新聞五月四日付朝刊の社会面より

四日午後八時半頃、東京都T区××杉山荘(管理人=某)内の一室で、S大学夜間部在学中の新山哲君(一八)が胸部に刃物を突き立て、血まみれになって死んでいるのを姉の陽子さん(二一)が発見、同区T署に届け出た。調べによると、哲君は同日、陽子さんが夕方五時頃から新宿へ買い物のため外出し、自宅でその留守番をしている間に死亡したもので、同署は一応自殺とみて陽子さんに事情を聴いているが、遺書はなく、動機も判然としないため、他殺の可能性もあるとしてその方面の捜査も進めているもようである。……(後略)

   新山陽子の供述
 「新山陽子、二十一歳です。近くのSデパートに勤めています。両親を七年前に交通事故で失くしました。それ以来世話をしてくれる身寄りもなく、弟と二人きりで細々と暮らしてきました。……(中略)……今日は夕方になって急に買いたい物を思い出し、新宿まで出かけて行きました。ここからはT線で一時間位かかります。今からでは遅くなるとは思いましたが、どうしても今日のうちに買物を済ませておきたかったので、哲にはなるべく早く帰るからと言い置いて出かけました。新宿のGデパートで用事を済ませ、デパートの中の赤電話から、お隣りの神谷さんの奥さんに電話をかけました。ところがその時、何か虫が知らせたのでしょうか、急に哲のことが心配になって、神谷さんの奥さんに、哲の様子を見てくれるように頼んだのです。奥さんは親切な方で、私の言う通り哲に声をかけてくれたそうです。その時はまだ、哲はあんなことには……。それから急いでここに帰って来ました。哲の好きなカレーライスの材料もたくさん買って来たのに。哲の部屋に入った時、私は目の前の光景が信じられませんでした。哲は四畳半の部屋の真中で、仰向けになっていました。胸にはナイフが刺さっていて、傷口から血が溢れていて、その回りには哲が撮った白鳥の写真が散らばっていました。自殺するつもりだったのなら、どうして私に打ち開けてくれなかったのでしょう。もしかしたら……いいえ、哲が誰かに殺されたなんて、そんなこと絶対に信じられません。……(後略)」

   死体検案書概要
 ・外表検査 (前略)果物ナイフは第四肋間腔付近から心壁を破り、先端は背部近くまで達している。……(後略)
 ・死因 心臓損傷とそれに伴う出血。
 ・自他殺の別 不詳。
 ・死亡推定日時 五月三日午後六時〜八時。
 (以下省略)
 なお死体解剖を担当した監察医の岡田医師は、解剖後、T署刑事部捜査一課の捜査主任大森部長刑事に、次のような私見を述べている。
 「検査書には自他殺の別不詳と書きましたが、あれは物理的な判断でね。普通刃物による自殺では、ためらい傷というのが本傷の周辺に散見されるんですが、本屍の場合はそれがない。だからもっと心理的な見方をすれば、他殺の可能性強しと言えるでしょう。それから胸部の傷はかなり深い。他殺だとすれば加害者は屈強な男性でしょうね。」

T署捜査一課員佐粧摂也の手記
 現場に一歩踏み込んで驚いた。あまりに殺風景だったのだ。警察の独身寮で一人暮らしをしている自分でさえもそう思ったのだから、現場の寂しさは、そこへ立ち入った誰もが身にしみて感じたに違いない。
 それでもわずかに生活の匂いを感じさせる貧しい調度に囲まれて、新山哲の死体はひっそりと横たわっていた。噴き出した血は既に赤黒く変色し、部屋の至る所にこびりついている。果物ナイフの柄は勝ち誇ったように、死体の胸に突き立ったままである。しかしそこまではまだ、目慣れた死の風景だった。自分にいつもと違う、異常な印象を与えたのは、血まみれの死体の周囲に散らばったカラー写真の、鮮やかな色彩だった。殺風景な部屋の中で、その美しい白鳥の姿態の数々はまるで何かを訴えるように、今は亡き撮影者を取り巻いているのだった。新山哲は生前、よぼど白鳥の撮影に凝ったものらしい。傍にはまだ、たくさんの写真を収めたアルバムが投げ出されている。そのアルバムにも血糊が付着しているところを見ると、新山哲は瀕死の状態でアルバムから写真を抜き取り、自分の周囲に撒き散したようだ。好きだった白鳥に囲まれて死んだ新山哲の死顔は、思いなしか安らかに見えるようでもあった。ふと、手袋をはめた手で写真の一枚を取り上げてみた。その時、自分は重大な発見をした。白鳥が水面から飛び立つ瞬間を移したその写真の裏側には、明らかに血で書かれた二つの文字があったのだ。そこにはこうあった。「Y・Y」

   T署鑑識課の諸報告
 ・果物ナイフからは、本人以外の指紋は検出されなかった。同様に、現場のあらゆる調度品、アルバム、写真からも、本人及び新山陽子以外の指紋は検出されなかった。
 ・現場の血痕は全て本人の血液型(A型)と一致した。写真の裏側に書かれた文字は明らかに血痕であり、本人の右手食指の先端に、文字を書いたと思われる形跡が見られた。
 ・現場に第三者を思わせる遺留品の類は見当らなかった。


   K新聞五月五日付朝刊の社会面より
 東京都T区××杉山荘内で発生したS大学一年新山哲君(一八)の変死を捜査中のT署は、同件を殺人事件と断定、同署内に特別捜査本部を設置し、大がかりな捜査を開始した。……(中略)……なお、現場にあった一枚の写真の裏側にはイニシャルを思わせる血文字があり、捜査本部はそのイニシャルに該当する人物を目下捜査中である。

   推理作家T・Sさんの話
 「殺人事件の被害者が死の直前に、加害者の手掛りを何らかの方法で残したものを、推理小説の世界では“ダイイング・メッセージ”と称しています。その血文字も、あるいはそれに類いするものではないでしょうか。」
 
   新山陽子の供述
 「私、この前も申し上げた通り、哲が殺されたなんて信じられません。もちろん、Y・Yというイニシャルの人に心当りはありません。哲のカメラですか?
 いいえ、哲はカメラを持ってませんでした。あの写真は友達のカメラを借りて撮っていたようです。……(後略)」

   神谷たけ子の話
 「ええ、あの日陽子ちゃんから電話があったのは夜の七時半頃です。私の好物のくきわかめをデパートの食料品売場で見つけたから、おみやげに買って帰ります、なんて言ってね。新宿のGデパートからかけているって言ってました。なるほど電話口でざわざわと人の声やなんかが聞こえてましたよ。それで電話を切ろうとすると急に、哲ちゃんが心配だから声をかけてやってなんてね。もう大学生なんだからって言っても、ちっとも通じないんだから。陽子ちゃんは弟思いのいい娘さんですよ。哲ちゃんだっていい子でした。可哀そうな子達ですよ。早いうちに両親を失くしてね。私達夫婦は子供がないものだから、本島にあの子達とは親子みたいにお付合いしてたのにねえ。もちろん声をかけに言った時は、哲ちゃん元気でした。お姉ちゃんが心配してたわよって言うと、照れ笑いしてね。やっぱり哲ちゃんが殺されたなんて嘘ですよ。あんないい子がどうして……。その後お隣りを誰かが訪ねて来た様子はないか、ですって? さあ、気を付けていなかったし、茶の間じゃうちの人がテレビの音大きくしてプロレス観てましたし。……(後略)」

   竹村幸延の話
 「僕が新山君と会ったのは、新入部員に対する説明会と、新歓コンパの時だけです。僕達のクラブは写真部で、今年も新入生獲得に躍起になっていた所へ、新山君が入って来てくれたんです。ところがコンパの後は、全然クラブの方へ顔を出してくれませんでした。コンパで見せてくれた白鳥の写真集は、とてもいいものばかりだったので、少し残念に思っていた所へ出し抜けにこんな報せで驚きました。さあ、新山君とはあまり話さなかったし、心当りと言われても……。ただコンパの帰りに少し妙なことがありました。あの日は夕方から雨になって……(中略)……どうやらそのタクシーの客とは顔見知りのようでした。
ただ新山君も向こうの人も、声を交わすでもなく、変な雰囲気でした。もちろんその人がこの事件と関係あると、自信を持って言えるわけではありませんが。
………(後略)」

   南雲幹夫の話
 「新山とは中学の時からの付合いです。いい友達を失くしました。新山は昔から写真が好きでした。と言うよりは白鳥が好きだったんです。新山の撮った写真はほとんど、僕のカメラで写したものです。よく白鳥を撮りに行くのに付合わされました。……(中略)……新山がいつか、こんな話をしてくれたことがあります。外国には“白鳥の歌”という伝説があるそうです。死に瀕した白鳥は美しい歌を歌うと言うのです。新山は死ぬまでに一度でいいから、その“白鳥の歌”に聴き入ってみたい、と口癖のように言っていました。新山には、男のくせにそんな優しい一面があったんです。新山が殺されたなんて、信じられませんよ。……(後略)」





 五月の気候は、一雨ごとに暑さを増してゆく。
 その夜も、梅雨空を思わせるどんよりした曇天が、煤けた都会の空から星の眺めを奪っていた。
 独身寮に帰った佐粧は、開け放った南向きの窓からそんな退屈な夜空を見上げながら、すっかり行き詰った捜査のその後を案じていた。
 特捜本部を設け、警視庁捜一との合同捜査を開始してから一週間。新山哲を殺害したと思われる人物の目星は、依然として掴めないままだった。やはり自殺ではなかったのか。あまりの手掛りの乏しさに、そんな弱気な意見も出る始末だった。 
 捜査本部がこの事件を殺人と判断したよりどころは、まず第一に、新山哲に自殺の動機がないこと。第二に、果物ナイフから本人以外の指紋が検出されなかったこと。第三に、死体にためらい傷がなかったこと。第四に、例の血文字の存在であった。
 その中で、「Y・Y」という血文字の解釈については、かなりの論議を呼んだ。「これはやはり加害者のイニシャルだ。」「いやそれほどの余力があったのなら、もっとはっきり実名を残したはずだ。」「何かを書こうとして途中で力尽きたのではないか。」というふうに。もちろんイニシャル「Y・Y」の人物については、必死の聞込みを続けて捜し回ったのは言うまでもない。しかし被害者の交際範囲の中に、その名前を見つけだすことはできなかった。そこで問題になったのが、被害者が四月十八日の夜出逢ったというタクシーの客である。竹村という学生はその時、被害者とその謎の客との間に、何かただならぬ気配を感じたという。しかしその客が一体何物なのか、皆目見当がつかない。ただ隣りに派手な服装の女を乗せていたということしかわかっていない。
 これとは別に、姉の陽子を疑う声が一方ではあった。確かに彼女が事件当夜取った行動には、不可解な点が多過ぎる。彼女は自宅から歩いて数分の所に、自分の勤め先でもあるSデパートがありながら、なぜ一時間かかる新宿まで買物に行かなければならなかったのか。しかもあんな遅い時刻に。それだけではない。隣室の主婦にかけたという電話の内容も奇妙だし、どうしても買っておきたかったという品物もはっきりしない。……ただ皮肉なのは、そんな陽子が真先に容疑者の枠から外されたことである。哲が死亡したのは、隣室の主婦が声をかけた七時半から死亡推定時刻の下限である八時までの三十分間だが、その時間帯に陽子はGデパートからの帰途にあったのである。彼女が確かにGデパートへ行ったことは、前述の電話でも明らかだし、彼女が警察に示したGデパートの紙袋に入った食料品や、五月三日付のレシートによっても証明されていた。そして何より「加害者は屈強な男性」という岡田医師の意見がある。……それでもなお陽子を疑う声が上ったのは、犯行がまるで彼女の留守を狙いすましたように行なわれたという事実があるからだった。考えられるとすれば、陽子が真犯人の共犯者だったという推定である。この推定を裏づけるために、捜査当局は絶えず彼女の動静に目を光らせているのだった。しかし最近の彼女の行動には、格別不振なものがない。……
 佐粧は窓を閉めると、畳の上に大の字になった。
 捜査本部の方針は、かなり新山陽子共犯説に傾いていると言える。佐粧もそれに反論があるわけではなかった。ただ天井を見つめる彼の眼には、木目と雨漏りの汚点に重なって、今でもはっきりと思い描くことのできる、あの血のメッセージがあった。
 佐粧は、新山哲の親友だった少年の話を思い出していた。新山哲が一度でいいから聴きたいと願っていたと言う、あの“白鳥の歌”の話である。白鳥は死ぬ直前に美しい歌を歌うという。白鳥の写真の裏に赤黒く刻まれたあの血文字は、新山哲が瀕死の状態で書き連ねた、彼自身の“白鳥の歌”ではなかったか。





 「似てるな。」
 できたてのモンタージュ写真と、前科者カードの人相とを見比べながら、警視庁捜査二課捜査係長の平田警部が呟いた。
 「やはり水谷ですか。」
 平田班の捜査員数人が、思わず係長のデスクを取り囲んだ。
 K区に住む二十三歳の某女性が、婚約者に借金を頼まれ、結婚資金にと貯めておいた貯金から現金十万円を快く貸出したところ、今日になってその婚約者の行方がわからなくなり、警視庁に欺されたと言って泣きついてきた事件から、担当者の平田警部は数年前に東京近辺で連続して起った、同じ手口の結婚詐欺事件を思い出し、その事件の犯人で、つい最近刑期を終えてN刑務所を出所した、水谷弘という男の前科者カードを引っぱり出してきたのだった。
 平田警部はもう一度モンタージュ写真を取り上げた。被害者の女性の記憶をもとに、入念に作成されたモンタージュだけあって、変装では隠しきれない目元や高い鼻梁の辺りが、前科者カードの顔写真と酷似している。
 「間違いないな。しかし水谷は現金を持ったまま、どこへ高飛びしたのだろう。」
 その日捜査員が、被害者が一度だけ訪れたことがあるという小林聡(水谷は今度の被害者に対して、そういう偽名を使っていたらしい。)のマンションを訪ねたところ、小林は三カ月間住んだだけのその一室を早々と売りに出し、二日前にそこを後にしたばかりであった。
 「この前逮捕された時は、仙台かどこかに潜伏していたのでしたね。」
 当時水谷の事件を担当していた中年の刑事が、記憶をまさぐるような目つきで言った。
 「実にすばしこいやつだ。今日東京に居たと思えば明日は東北だったり関西だったり……。」
 平田警部は腕組みをしながら、部下の捜査員達をひとわたり見回した。しかしその目元には、ある種の余裕さえ感じられた。
 「とにかく顔写真をバラ撒いて指名手配だ。どうせ偽名を使って安旅館を渡り歩いているんだろうが、今度の被害額の十万を使い果すのに二カ月はかかるまい。やつが網に引っかかるのも時間の問題だ。」
 平田警部はそう言いながら、もう一度モンタージュ写真を取り上げると、その鼻柱の辺りを指先で弾いた。
 「しかし結婚詐欺に引っかかるという女の心理はわからんな。女というのはそれほど結婚という餌に弱いものかねえ。」
 「それじゃ、係長もひとつ引っかけてみたらいかがですか?」
 年嵩の刑事が冗談めかして言うと、その場が笑いに包まれた。
 「それほどの男前とも思われんがね。」
 警部はモンタージュ写真のことを言ったのだが、それは自分のこととも取れそうであった。





 通勤通学客の足が途絶え、閑散としたT区F駅前の繁華街を、高く昇った初夏の太陽が誇らしげに照らし出していた。
 今は出入りする人も疎らなSデパートの、北側についた通用口がよく見渡せる位置に車を止めて、佐粧と大森部長刑事が物憂げに外を眺めている。大きな建物の陰になっていて直射日光の差さないのが、せめてもの救いだった。今日は彼ら二人が、新山陽子の一日の行動を最後まで見届けなければならない。
 彼女が勤め先のSデパートの通用口を潜ってから、もう三時間がたっていた。
 「新山陽子の事件当日の行動なんだが。」
 大森部長刑事が、窓の外を吹き抜ける五月の風とは裏腹に、けだるそうな口を開き始めた。
 「午前中彼女が新宿のGデパートに赴いていることがわかったんだ。ところが妙なことに、目的がはっきりしない。一緒にGデパートへ立ち寄ったここの同僚の女性の話によると、陽子はその女性を入口に待たせたままデパートに入って行き、五分程で何も買わずに帰って来たそうだ。その女性がどうしたのか、と尋ねても、陽子ははっきりとは答えなかったらしい。どうだ。臭いとは思わないか?」
 部長刑事は皺の目立ってきた顔を、助手席の佐粧に向けた。初めから陽子に不審の眼を向けていた部長刑事は、独自で彼女の行動を探っていたらしい。
 「もしその時、夕方の買い物を済ませてしまっていたとしたら、彼女のアリバイは崩れるわけですね。しかし彼女はなにも買わずに出てきたんでしょう?」
 「うむ。しかし、君は今アリバイと言ったが、彼女が被害者を殺ったのではないことは物理的に証明されている。わからないのは、そんな彼女が事件当日、
どうしてあのようなアリバイ工作めいた行動を取ったかということだ。」
 大森部長刑事は、遠くを見るような目つきでそう言った。
 (デカ長さんは陽子のあの奇妙な行動を、アリバイ工作と解釈しているようだ。しかし、だとしたら何のためのアリバイ工作なのか。犯人でない陽子が、どうしてそういう工作をしなければならなかったのか。……)
 佐粧は次々と現われる疑問符に閉口させられながら、何気なく部長刑事の視線を追った。それと、部長刑事の緊張した声音が狭い車内に響いたのとは、ほぼ同時だった。
 「おい、出て来たぞ。」
 慌てて目を凝らすと、新山陽子が通用口から普段着姿で現われたところだった。彼女はしばらく周囲を見渡してから、足早に繁華街へと歩を進めてゆく。
 「今ちょうど昼休みだな。すぐ戻って来るだろうから俺はここに残る。彼女の行先を確めて来てくれ。」
 大森部長刑事の指示で、佐粧はすばやく車を降りると、慣れた足取りで彼女の後をつけ始めた。

 同じ頃、警視庁捜査二課に、奇妙な電話が舞い込んだ。受話器を取った刑事は急に表情をこわばらせ、手元のメモ用紙を引き寄せた。
 「係長、例の水谷弘の件ですが……。」
 刑事は送受器を置くのももどかしく、デスクの平田警部を振り返った。
 「こんなタレ込みがありました。水谷の潜伏先らしいです。」
 刑事が慌しく差し出したメモ用紙を、平田警部は眼を近づけて何度も読み返した。
 「名古屋市D区××Mホテル三〇一号室……。うむ。ところで今の電話の主は誰なんだ。」
 「ええそれが、女なのですが名乗らずに切ってしまいました。」
 刑事がすまなそうに俯いた。
 「女ならおそらく、水谷に危く引っかかりそこなったんだろう。新聞を見て、被害を受ける寸前に思いとどまって、連絡先を教えてよこしたんだ。この住所は、水谷がその女に告げた送金先だったかも知れん。とにかくここを当ってくれ。早い方がいい。」
 警部は速やかに、名古屋へ派遣する刑事を指名した。





 翌朝、佐粧は六時一二分東京発“ひかり六一号”の車内に居た。ラッシュ時には早いが、車窓から望む朝の太陽は、もうとっくにビルの合い間から顔を覗かせていた。
 そんな佐粧の心が妙に浮き立つのは、この所の好天続きのせいばかりではなかった。昨日佐粧が持ち帰った収穫が、沈滞していた捜査本部の気運を一気に高めていたのだ。
 あれから、新山陽子は一キロ程先の郵便局を訪れたのだった。入口の見える位置に身を潜めていた佐粧は、五分程たって出て来た陽子の何気ない様子に、落胆の表情を隠せなかった。切手でも買って来た、という雰囲気だったのだ。しかし近づいて来た陽子の表情に、心成しかある種の翳りを認めた佐粧は、刑事の触角に訴える何かを感じ取っていた。
 佐粧は勢い込んで郵便局のドアを押した。何かあるというカンは当っていた。若い局員に尋ねると、陽子はある所へ現金を送るつもりだったらしい。念のため、陽子が窓口に出した現金封筒を検めると、封筒は二通で、金額は二十万円であった。その封筒の厚みが、まず佐粧を驚ろかせた。しかしさらに彼を打ちのめしたのは、その送金先だった。細かい字体で書かれた現金封筒には、次のような宛名があった。「山下豊様」! これらの事実をその日の捜査会議で発表した時の、他の捜査員達の気色ばんだ表情の数々が、今も佐粧の目に浮ぶようだった。山下豊その未知なる人物は、捜査網の一端に初めて舞い込んできた、イニシャル「Y・Y」の人物であった。
 山下という男が、一体被害者や姉の陽子とどういう関係にあるのかは、まだわからない。しかし、哲が残した血文字のイニシャルが、山下を指しているという公算は強い。Y・Yという頭文字はそうあるものではない。……だが山下を犯人と考えると、動機は一体何だろう。山下という男がどういう人物であるにせよ、財産も地位もない十八歳の少年を惨殺しなければならない理由は、どこにもないように思われた。
 それを今から突き止めに行くのだ、と佐粧は思った。陽子は警察の調べに対して、山下豊との関係をいっさい黙秘した。それが彼ら二人に対する疑惑をさらに強めたのは言うまでもない。もう捜査は大詰めに近づきつつあるのだ。それだけではない。哲の無言の訴えを、あの悲痛な“白鳥の歌”を、佐粧は生きている者として聴き取ってやる義務がある。
 ひかり号は八時過ぎに名古屋に着いた。駅の待合室には、地元の警察から応援の刑事が駆けつけてくれる手筈になっている。佐粧は未知なる敵に向けて、意気を込めた一歩を踏み出した。

 名古屋市D区のMホテルは、名古屋駅から車で十五分程の位置にある、ありふれた小さなビジネスホテルである。東京や大阪から短かい期間出張している会社員などがよく利用する他、重要な密談などが、このホテルの一室で秘かに交されたりする。部屋はいずれもシングルで、宿泊客は三十〜五十歳台の男性が圧倒的に多い。その多勢の泊り客に紛れて、五月十日以来約二週間、そのホテルの三〇一号室に閉じ込もったまま、ほとんど外出もせずに息を潜めている一人の男が居た。 警視庁捜査二課第一係の町沢、関両刑事は、その日の朝早くMホテルを訪れると、フロントに宿泊人名簿の閲覧を申し出た。思った通りそこに水谷弘、或いは小林聡という名は見当らなかった。しかし水谷が他の偽名を使って、そのホテルの三〇一号室に投宿しているのは確かだった。
 「三〇一号室に宿泊しているのは、この男に間違いないでしょうね。」
 町沢が念のため、水谷の手配写真をフロントクラークに見せた。彼は写真にしばらく目を凝らした後に答えた。
 「ええ、この方のようです。」
 二人の刑事は顔を見合わせて頷くと、駆け足で停車中のエレベーターに飛び込んだ。二階、三階。二人は扉の開くのを待つのももどかしくそこを飛び出すと、カーペットを敷きつめた廊下を走り抜け、三〇一号室のドアの前に立った。
 関がドアをノックした。しばらくして、ためらうようにドアが細目に開いた。町沢はその隙間に両手を突っ込み、一気にドアを開けた。男が一人、呆然と突っ立っていた。
 「水谷だな、警察の者だ。」
 町沢が警察手帳を男の鼻先に突きつけた。しかしその一瞬に油断があった。男は町沢の腕を払いのけると、傍らの関に体当りを喰らわせ、猛然と廊下を駆け抜けていった。
 「しまった!」
 二人がそう叫んで後を追おうと走り出した頃、男を載せたエレベーターは階下に向っていた。男は蒼ざめた顔を歪めながら、エレベーターの位置を示す電光板を睨んでいた。扉が開いた。男は全力でホテルの出入口へ突進した。しかしその時、その男の行動を見咎めた者が居た。フロントクラークと話していた佐粧は、エレベータールームからもの凄い勢いで走って来る男に気付くと、刑事の習性で咄嗟に異常を感じ取り、敏捷な身のこなしでその男の行手を塞いだ。男は構わず突っ込んで来た。佐粧は素早く男の腕を取ると、その惰力を利用して豪快な背負い投げを決めた。柔道四段の佐粧は次の瞬間、男を完全に組み伏せていた。
 まもなくそこに、二人の男が駆け寄って来た。佐粧がようやく、自分の組み伏せた男が自分の追っていた人物であることに気付いたのは、町沢、関の両刑事から説明を受け、結婚詐欺容疑で指名手配されていた水谷弘という男が、山下豊という偽名でこのホテルに宿泊していた事実を確認してからだった。
 佐粧はあまりにも意外な展開にとまどったような目つきで、今は手錠を繋がれてがっくりとうなだれた水谷弘をいつまでも見つめていた。





   W新聞五月二六日付朝刊の社会面より
 二十五日の午前八時半頃、東京で発生した結婚詐欺事件を捜査中の警視庁捜査二課は、名古屋市D区××のMホテル(経営者=某)で容疑者水谷弘(三三)を尋問しようとした際、水谷が逃走を企てたためその場で緊急逮捕した。……(中略)……なお、東京T署の大学生殺害事件の捜査本部は、この水谷を有力容疑者として取り調べたが、この事件に関して水谷には明確なアリバイが証明されたため、同捜査本部は水谷に対する今後の取り調べを断念した。

   水谷弘の供述
 「(前略)新聞で自分の手配写真を見つけた時は、正直言って驚いた。こんなに早く足がつくとは思わなかった。Mホテルをその時すぐに立ち去らなかったのは、新山陽子と某女性(註・おそらく密告の電話をかけた女だろう)からの送金を待っていたからだ。彼女達を欺した手口については彼女達の口から聞いてくれ。自分で言うのもおかしいが、特に陽子は俺にぞっこんだった。だから余計、苦もなく二十万をせしめる計画を放り出すのが惜しくて、いつまでももたついていたのだ。二十万手に入れたら、すぐにでも海外へ飛ぶつもりだった。殺人? とんでもない。三日のアリバイは完璧だ。俺は一日中Mホテルに居た。陽子の弟とは一、二度顔を合わせただけだ。四月十八日?……さあ、忘れたな。……(後略)」

   新山陽子の供述
 「(前略)私、山下さんを信じています。あの二十万円は山下さんが私から欺し取ったお金なんかじゃありません。あれは私達の結婚資金だったんです。山下さんが他の人を欺したことや前科のあることは知っています。山下さんはそれを私に打ち明けて下さった上で、私の返事を聞いてくれました。私達は幸わせになるはずだったんです。「Y・Y」という頭文字の人を知らないか、と刑事さんに尋ねられた時、知らないと答えたのには理由があります。私、哲が自殺だったということも、それから哲があのイニシャルを残して、山下さんを犯人に仕立てた他殺のように見せかけようと企んでいたことも、何となくわかっていました。だから、ここで山下さんのことを話したら、あの人が疑われてしまうだろうと思って黙っていたのです。山下さんにお金を送る所を見つかった時、黙秘したのもそのためです。哲を自殺に追いやったのは私達かも知れません。でも私にだって、幸わせになる権利はあるはずです。哲がそれをわかってくれずに、山下さんを憎んでいたのは残念です。山下さんにしっかりしたアリバイがあったのは幸いでした。私、あの人が出所して戻ってくる日をいつまでも待って いるつもりです。……(後略)」

   監察医岡田博明医師の話
 「だからあくまで心理的な見方をすれば、と言ったでしょう。ためらい傷のない自殺死体がないというわけじゃなく、可能性として少ないと言ったまでで……(後略)」





 捜査本部が解散してから二週間経ったある日曜日の夕方、Sデパート地階の、独立したスーパーマーケットになっている食料品売場は、黄色いカゴを提げた
近隣の主婦達でごった返していた。閉店の七時半まであと三十分。新山陽子は時折腕時計を見やりながら、慣れた手つきでレジスターを叩き続けている。会計を待つ買物客の列は、陽子に手を休める暇さえ与えなかった。
 佐粧は、買物袋をかかえた客がひっきりなしに押寄せて来るエスカレーターの乗口の脇に立ったまま、そんな陽子の姿をじっと睨み据えていた。この二週間、佐粧の職域を越えたヴォランタリーな捜査が、こんなふうに続いているのだった。
 事件は解決していた。新山哲の死は、自殺としてカタがついたはずだった。それでもなお、佐粧をそんな報酬のない行動に駆り立てたものは何だったのか。

 それは今まで、佐粧の意識の底に常に置かれていた、一つの仮説であった。「陽子は哲が死んだ時、現場に居た。」しかしそれが何の意味するのか、佐粧にもわからない。現場に居たとしても、陽子は哲に直接手を下してはいないのだ。しかし、そういう仮説を設定しない限り、彼女の当日の異常な行動は説明できない。大森部長刑事が言ったように、彼女はあの時アリバイ工作をしたのだ。何のためかはわからない。それを突き止めるには、まず陽子のアリバイを崩すことだ。
 佐粧は会計所の人波を眺めながら、考え続けた。陽子はあの日、夕方五時に家を出、七時半頃隣室の神谷たけ子に電話をかけた。陽子が工作をしていたのなら、その電話は決して新宿のGデパートからかけられたものではないことになる。ではどこからかけたのか。神谷たけ子は、電話口でデパートの内部らしい人声を聞いたと言う。しかしそれが、Gデパートの人声だとは言っていない。例えばあの日、佐粧が今立っている傍の赤電話から、電話をかけてもよかったのだ。ここならデパートの人声は電話に入るし、何よりこのSデパートは、現場から徒歩で数分の場所なのだ。しかし彼女のアリバイを構成しているのは、この電話ばかりではない。問題は、彼女が持っていた当日即ち五月三日付の、Gデパートのレシートである。このレシートがある限り、彼女は五月三日にGデパートで、確かに買物をしたことになる。しかも現場にあった買物袋とその中の食料品は、確かにGデパートのものだった。もちろん食料品はいつでも買えるから、さほど問題ではない。しかしレシートばかりは、いつでも入手するわけにはいかないのだ。
 佐粧は再び、レジスターを叩き続ける陽子の制服姿に目を写した。レシート。それは彼女が毎日相手にしているものの一つではないか。彼女が自分の経験からあるトリックを思いついたとしても不思議はない。
 その時、しばらく忘れていた出来事が佐粧の頭にふと蘇った。五月三日の午前中、陽子は同僚を連れてGデパートを訪れている。その時は何も買物をしなかったと言う。しかし、あのレシートを手に入れるチャンスがあるとすれば、このときしかなかったはずである。
 Gデパートへ行こう!
 佐粧は陽子の横顔に鋭い一瞥をくれると、さっと身を翻し、エスカレーターを一段抜きに駆け上って行った。買物袋を持った主婦が、呆れたように佐粧の後姿を眺める。
 店内アナウンスがせき立てるような口調で、閉店時刻が近づいたことを告げていた。





 手持ち無沙汰になった時、ふと兆してくる空虚な気持ちを、陽子は何か身体を動かすことによって紛らすのが精一杯だった。
 この日も、送り返された二十万円の中から権利金を収め、新しく移ったアパートの一室に帰り着いた途端、そんな虚無感がまた陽子の中に深く忍び寄ってきていた。だから陽子は首を横に振りながら慌しく立ち上り、まだ早過ぎる夕食の仕度を始めるのだった。
 一人分の食事の材料は少なく、油で汚れたコンロ台の脇にポツンとあった。食料品売場で分けてもらった残り物の野菜を取り上げながら、陽子は何気なく壁際のカレンダーを目に止めた。
 ふと、山下豊が再び自分の目の前に現われるまでの、途方もなく長い年月が思われた。陽子は初めて、自分の胸に穴をあけているのは、彼女の前に長々と横たわったその年月なのだと気付いた。すると急に、彼女が今まで必死になってかき抱いて離さなかった信頼の基が、ぐらぐらと揺らぎ始めた。同時にそれは、彼女が生き続けることに感じる心もとなさでもあった。
 台所の窓から、朱色の西陽が手の動きを止めた陽子の顔を照らしていた。また一人きりの夜が来る、と陽子は思った。
 ドアにノックの音が響いたのはその時だった。陽子はハッと我に返り、「どなたでしょうか。」と小さく言った。
 「T署の佐粧です。」
 陽子がその声を聞いた時はもう、ドアが開き一人の男が玄関に一歩踏み入れていた。
 「あの、何か……。」
 陽子は気圧されたように後退りしながら、かろうじてそう言った。佐粧は後手にドアを閉めると、ギラギラした瞳を陽子に向けて来た。陽子は竦んだように上框に立ちつくした。
 「Gデパートでは閉店十分前になると、“家路”という音楽を店内に流すのをご存知ですか?」
 佐粧はいきなり切り出した。そして陽子に口を挟む余地さえ与えなかった。
 「あなたがあの日、神谷さんに電話をかけたという七時半頃も、当然“家路”のメロディーが客足をせかしていたはずです。しかし神谷さんはあの日の電話で“家路”のメロディーは聞いていないそうです。神谷さんはクラシック音楽が好きで、もしあのドヴォルザークの有名な旋律を電話口で耳にしたのなら、必ず記憶に残っているはずだ、と言っていました。」
 佐粧はここで言い淀むと、陽子の反応を窺った。しかし陽子の顔はシルエットになっていて、表情が読み取れなかった。佐粧は続けた。 
 「またあの日の午前十一時頃、Gデパートの食料品売場のレジ係をしているある女性は、一人の女の客からこんな申し出を受けてとまどったそうです。『実は私、昨日ここで買物をしたのですが、家に帰って調べてみると、レシートの金額の表示に間違いがありました。ここの所です。三七〇円が二七〇円になっています。昨日買った品物は、あるパーティーに使う材料で、レシートは領収証がわりなのです。私は昨日の買物の分を立て替えていて、あとでこのレシートを持って行って会計の人に請求することになっているので、できたらこのレシートの金額を訂正していただきたいのです。』……そう言ってその客は、前日二日付のレシートを差し出したそうです。レジ係の女性は、たった百円の訂正なのでちょっと変に思ったそうですが、自分の打ち間違えらしいので、仕方なく新しいレシートを打ち直して渡したそうです。」
 佐粧はGデパートでの収穫を一気に吐き出した。
 「あなたのアリバイは崩れました。あなたは事件発生当時、現場に居ましたね。そして哲君の死の瞬間を目撃したはずです。今からでも遅くない。僕と一緒に警察へ来て下さいそして真相を話して下さい。」
 そこで佐粧は言葉を切った。陽子は黙っていた。佐粧に影になった顔を向けたまま。
 それからしばらくの時間を、二人の微かな息づかいだけが埋めた。玄関は真っ暗になっていた。
 「刑事さん。」
 陽子は長い沈黙の後、問いかけるようにそう言った。
 「山下さんは、いつになったらここへ帰って来られるでしょうか。」
 唐突な質問に佐粧はとまどった。しかし咄嗟に、彼女の口を封じているものがあるとすれば、それは水谷への今だに捨て切れない信頼の念なのだと判断した。
 「いつまでそんなことを言っているんです。あの男は山下なんかじゃない。水谷弘という札つきの結婚詐欺師ですよ。あの男はあなたから二十万円詐取しようとした。しかも見せかけの愛情をダシにして……。そんな卑劣な男のことは、早く忘れてしまった方がいい。さあ、警察へ行きましょう。」
 佐粧は促すように片手をさしのべた。しかし陽子は応じなかった。
 「刑事さん、明日まで待って下さい。気持ちの整理がしたいんです。」
 陽子は哀願するように言った。その哀れさが、思わず佐粧を迷わせた。しかも今の彼は、上司の命令で動いているのではなかった。……
 「わかりました。それじゃ、明日必ず。」
 念を押してから、佐粧は陽子に背を向けた。明らかに佐粧のミスであった。彼は生きている陽子を見た最後の人間になった。





   K新聞六月六日付夕刊の社会面より
 六日午前七時十分頃、東京都T区××Kアパートの一室で、今月初めから同室を借りていたSデパート店員の新山陽子さん(二一)が、台所のガス栓を開いたまま床にうつ伏せになっているのを、ガスの臭いに気付いた隣室の主婦Eさんが発見、ただちに一一九番したが、陽子さんは病院に運ばれる途中ガス中毒のために息を引きとった。通報を受けたT署の調べによると……(後略)

   新山陽子の遺書
 昨日、刑事さんが見えました。哲の事件は自殺として解決したとばかり思っていましたが、やはり警察の方々は、私のしたことに感づかれていたようです。
でもおかげで、私は重大な決心をすることができました。
 私は今まで、嘘ばかりついてきました。全て自分ひとりの幸わせを望む気持ちからでした。死ぬという決心をした今、私はようやく本当のことを話せるような気がします。
 山下さんと初めて会ったのは、半年位前でした。山下さんはそれからちょくちょく、Sデパートに買物に見え、自然と顔見知りになったのです。山下さんは弟ひとりしか身寄りのない私に、とても優しくしてくれました。私は生れて初めて、男性の本当の優しさに触れた気持ちでした。私の心は、日増しにあの人の方へ傾いてゆきました。そんな時、山下さんは私にこう打ち開けてくれたのです。『僕は詐欺の前科があるけれど、これからは真面目になって働くから、僕と結婚して欲しい。』私は初め、山下さんがどうしてわざわざ前科のことを口にするのかわかりませんでした。でもそのうち、前科のあることをあえて打ち開けてくれた山下さんの気持ちは、やはり本物なのだと思うようになりました。今思えば、それがあの人の手だったのです。でもあの時の私は、やっと手の届く所まで近づいた人並の幸福に、すっかり目が眩んでしまったのでした。私は哲のことさえ見えなくなっていたのです。
 一度、山下さんがうちに来て、帰り際に哲と鉢合せしたことがありました。山下さんが行ってしまった後で哲は言いました。『あの人、姉さんの恋人かい。』私は『いつか紹介しようと思ってたんだけど、婚約者よ。』と誇らしげに答えました。『へえ、姉さんも隅に置けないな。』その時の哲は、素直に喜んでくれたようでした。ところがその哲が四月十八日、夜遅く雨に濡れて帰った時、私の顔を見るなり恐い顔をして言うのです。『さっき姉さんの婚約者を見たよ。』『えっ。』と私は尋き返しました。『夜の街を女と一緒に、タクシーに乗って飛ばしてた。みなりの派手な女だった。』哲は私の目をじっと見つめました。『姉さん、俺やっぱりあいつと姉さんの結婚には反対だ。あいつ、姉さんにはふさわしくないような気がするよ。』私は少しムッとして答えました。『あなたにはわからないわ。山下さんはいい人よ。それに結婚するのは私なんだから、あなたに反対する権利なんかないわ。』哲は黙って下を向きました。そしてしばらくしてから言いました。『姉さんのことを思って言うんだ。よしなよ、あいつと一緒になるのは。』前よりも感情のこもった言い方でした。だから余計にカッとしました。その時の私は、山下さんが女の人と居たという話を聞いて、ムキになっていたのです。『どうして邪魔するの。どうして私が幸わせになっちゃいけないのよ。それとも私がいないと寂しいとでも言うの、大学生のくせに。』哲は急に立ち上りました。そして近づいて来ると、私の頬を思いきりぶちました。『バカヤロウ!』哲は泣き声で言いました。
 その翌日、山下さんから電話がありました。私は駅前の喫茶店に呼び出されました。山下さんはいつになく深刻な面持ちでした。『夕べ哲君に会った。』山下さんはボソリと言いました。『哲もそう言ってました。』そう答えると、山下さんは身を乗り出して『僕のことをどう言ってた?』と尋きました。まさか哲の言った通りのことは言えずに黙っていると、『哲君は僕達の結婚には反対なんじゃないのか?』と尋ねます。私は思わず頷いてしまいました。
 山下さんが私に、絶対安全な方法を考えたから哲を私の手で殺してくれ、と頼みにきたのは、それから更に三日ほど後のことです。私は愕然として山下さんの顔を見返しました。『哲君は僕達の結婚に反対なんだろう? だったらこのまま僕達が一緒になっても、哲君が何かと僕達の生活を乱そうとするのは目に見えている。それに……これは言いにくいんだが、実はあの夜僕の犯行現場、つまり十万円詐取しようと考えていた女と一緒に居る所を哲君に見られてしまったんだ。もし哲君があの夜のことを警察に告げたりしたら、僕達はもう一緒に暮せなくなってしまうんだよ。』山下さんはそう言って私を見つめました。『ねえお願い、もう詐欺なんて恐ろしいことなさらないで。』私は哀願しました。『いや、僕達の新しい生活のスタートには金がいるんだ。新しいマンションだって買わなきゃならない。君の貯金の二十万だけじゃ、悪いけどとても足りないんだ。みんな僕達のためなんだよ。』山下さんはそう言って私の肩を揺りました。新しい生活……私はまたその言葉に酔わされてしまいました。気付いたときはもう、私は大きく頷いた後だったのです。
 五月三日。私は山下さんの計画通りに行動しました。レシートや電話のトリックも、山下さんがあらかじめ考えていたものでした。山下さんが名古屋で完全なアリバイを作っている間、私は操り人形のように計画を実行していったのです。五時、私は哲にGデパートへ行くと言い置いて家を出ました。私は人目を避けてSデパートへ直行し、屋上の遊園地で時間を潰しました。閉店時刻の七時半直前に、私は食料品売場に降り、レジの近くの赤電話から神谷さんに電話をしました。その時Gデパートからだということを強調しました。哲に声をかけてくれるように頼み電話を切ると、私はそっとSデパートを抜け出し杉山荘に戻りました。ゴールデン・ウィークの初日なので杉山荘の人達はほとんど出掛けていました。私は足音に気を付けながらなんとか部屋に帰り着きました。私はすぐに手袋をすると、用意していた果物ナイフを握りしめました。もう何も考えるまい。今は自分の幸わせだけを信じて山下さんに従いてゆこう。私は心に言い聞かせながら哲の部屋に踏み込んで行きました。ナイフを後ろに隠しながら、私はアルバムの整理をしている哲に近づきました。哲は私を見上げ、怪訝そうに尋ねました。『あれ、もう帰って来たの?』私はそれには答えず、ただ哲の胸元を目がけてナイフを突き出しました。しかしそれは失敗でした。ナイフは虚しく宙を切りました。哲は驚いて立ち上がりました。今度は全体重をかけて哲に抱きつきました。鈍い音がして刃先がわずかに食い込み、哲のシャツに血が滲みました。でも私はそれ以上どうすることもできませんでした。ナイフを放すとがっくり膝をついてしまったのです。哲はナイフの柄を持ったまま立っていました。『姉さん、俺を殺したいんだな。』哲は苦しそうに言いました。私はそっと哲を見上げました。哲の目から涙がポロポロ溢れていました。『姉さんを幸わせにさせてちょうだい。』私は夢中で言いました。哲はナイフを握った手に力をこめたようでした。哲は言いました。『姉さん、子供の頃を憶えているだろ。俺の手を引いて、公園の白鳥の池に連れて行ってくれた姉さんは、とても優しかったな。姉さんのために俺は死ぬんだろ。それでもいいよ。でも最後にお願いがあるんだ。あいつの所へ行っちゃだめだ。絶対にだめだよ、姉さん。……さあどいてろよ。返り血を浴びたって知らないぞ。』哲は泣き笑いのような顔を私に向けました。私は恐くなりました。たまらなく恐くなって哲の部屋を飛び出してしまったのです。
 それから私は死にそうな思いで時間の経つのを待ち、八時半頃一一〇番をしたのです。その間に、哲が山下さんのイニシャルを、おそらく私を庇うために残していたことには全く気付きませんでした。
 翌日、山下さんから電話がありました。それが最後の電話でした。山下さんは慌しい口調で詐欺がバレたと言いました。新聞に写真が出て警察が追っているから、逃走資金として私の貯金を現金で至急送るようにとのことでした。それからもし山下さんが逮捕されるようなことがあっても、哲の一件は自殺として片付けてしまうように言われました。私は山下さんの言う通りに行動しました。山下さんが逮捕されて、刑事さんが質問に来ても、私はあの人を信じ、いつかはあの人によってもたらされる幸福を信じていたのです。
 私は昨日になってようやく、自分もあの水谷という人の哀れな被害者の一人に過ぎなかったということを知りました。そして実の弟を死に追いやった罪深さをようやく知ったのです。
 さようなら、ご迷惑をおかけしました。今は哲に謝りたい気持ちでいっぱいです。もうすぐ、哲のそばに行きます。     陽子

   K新聞六月七日付夕刊の社会面より
 先日詐欺の疑いで警視庁に逮捕された水谷弘(三三)は、七日昼、新たに殺人教唆その他の疑いでT署に再逮捕された。水谷の容疑は、六日Kアパートの一室でガス自殺した新山陽子(二一)の遺書で明らかにされたもので……(後略)


10


 非番のその日、佐粧は気ままな散歩を楽しんでいるうち、ふと思いついてC区郊外にある某公園に足を向け始めた。T線に三十分程揺られ、降りた駅から更に歩いて五分ぐらいで目的地に着いた。都会色がそこだけ影をひそめたような、静かな場所である。
 今にも泣き出しそうな梅雨空を見上げながら、佐粧はいかにも場違いな風体で、その人影も疎らな白昼の公園に踏み入った。入口近くの案内板で池の位置を確かめると、佐粧は道端に開いた色とりどりの花を楽しむように、ゆっくりとプロムナードを歩き始める。
 夕べの雨が、まだ足元のアスファルトを湿らせていた。左右の視界を埋めている深い緑をたたえた樹木の梢で、時折鳥のさえずり合う声がする。その緑が切れたとき、眼下にかなりの広さを持った池が現われた。佐粧はゆっくりと石段を降り、水際に腰を降ろした。
 「白鳥の池」と書かれた立て札が見えた。なるほど遠くの水面を、三羽の白い水鳥が列をなして泳いでいる。かなり遠いので、それが白いかたまりに見えた。あれが白鳥だろうか、と佐粧は思った。あひるではないかと疑いながらも、佐粧は白い鳥の動きをじっと見つめた。
 急に新山哲や陽子のことを思い出した。
 哲が小さい頃陽子に連れられていったのも、こんな池だったのだろう。そして哲の幼い心を捕らえたのも、あんな小さな白いかたまりだったのかも知れない。
 そう言えば、久しく忘れていたあの“白鳥の歌”の伝説。あれは本当の話だろうか、と佐粧は考える。……まさか。伝説は事実でないから伝説なのだし夢がある。
 そうだ。哲や陽子はそんな伝説を信じて生きてきた。いや、あの二人に限らず、人間なんてみんないつでも、そういう曖昧なものを頼りに生きているのかも知れない。そしてそれがはかない伝説に過ぎないことを知った時、人間はふと死にたくなるのだろう。
 だがそんなふうに考えるのは、やはり陽子を自殺に追い込んでしまった自分の、責任逃れかも知れないと佐粧は思うのだった。
 その時、佐粧の眺めていた一羽の白鳥が、出し抜けにパッと翼を拡げた。その瞬間の構図が、佐粧の記憶にあった同一のそれを呼び覚ました。現場にあったあの一枚の写真の構図である。そしてその裏に書かれた血文字。……あれは一体何だったのだろう。
 陽子は哲が自分を庇うために、山下のイニシャルを残したと考えていたようだ。しかし果してそれが真実だろうか。
 佐粧の解釈はこうだった。あの時、哲は瀕死の状態で、自分が最も憎悪する人間のイニシャルを残したのだ。それは山下ではない。目の前に居た陽子だった。しかしそれは哲を殺そうとした陽子ではない。哲の最後の願いを裏切って「あいつ」のもとに走ってゆく陽子だったのだ。哲は死に瀕して、そんな幻を見たのかも知れない。そして最後の力を振り絞って、あの血文字を書いたのだ。最も憎む女のイニシャルを。「山下陽子」という女のイニシャル(Y・Y)を……!

 ふと我に返った佐粧の目に、遠い水面に遊ぶ白鳥の白さが蘇っていた。つまらないことを考えた、と佐粧は後悔した。そんなことはもう、どうでもいいことだったのだ。
 さっき翼を拡げた白鳥は、いつのまにかどこかへ飛び去っていったようだ。残った二羽が寄り添うようにして、池の上を音もなく進んでゆく。
 くすんだ風景の中で、その白い点だけが光るような鮮やかさを誇っていた。
「きっとあれが姉で、あれが弟なんだ。」
 佐粧が奇妙な独り言を呟いた。しかしそれを聞き咎めたのは、暗い水面をわずかに波立てる、六月の湿った風だけだった。

                終


 はくちょう・の・うた【白鳥の歌】
 (Schwanengesangドイツ)
 伝説で、白鳥が死に瀕して歌うという歌
 転じて、最後の歌。即ち没前の最後の作歌または曲・演奏など をいう。シューベルトの歌曲集が著名。
                   (広辞苑より)



   あとがき
 たいへんなことになりました。本文がたった4行はみでたばっかりに、僕は3ページにわたる長大な穴埋めを書かなくてはなりません。ほら行をまちがえた。熱意のない証拠、あれ、まちがえてないや。でも消すのはめんどうくさい。やめておこう。やめて……本当はやめて早く寝たいんだ。もうすぐ夜中の一時なんだ。でもこれをやらないと桜井さんに叱られるからな。ああつらい。この世の生き地獄だ。地獄というのはね、えんまさまがいるのだよ。そして舌を抜くのだよ。やっとこで抜くのだよ。やっとこすっとこ抜くのだよ。やっとこすっとこえんやあとっとと抜くのだよ。それがたいそう痛いということを僕は知っている。なあに麻酔をすればなんてことはないさ。現代の医学は進歩している。局部麻酔だけで心配な人は全身麻酔をする。するとたまにショック死するんだよ。ショック!ショック!アイアンショック!霧の中からあ、アイアンキングう。ってなことになりかねないのさ。
 ああ、こんなこと書いてたら桜井さんおこるべなあ。しかし夜中も一時を過ぎると、人間おそれを知らなくなるのでね、しかしこんなバカなことを書いても、僕のイメージを損うだけだからな。少しまじめになるか。



 今回の創作「白鳥の歌」を執筆するに至った経過を少し書いてみたいと思います。
前号のマンスリーの批評会で、僕を含めた数人の人が、こんな意見を出しました。
 「少しミステリーの創作が少なくはないか」
 「ミステリー派とSF派は同数いるのに、SFの創作はあってもミステリーはないではないか」
「ミステリー派の連中はミステリーを書かずに、雰囲気小説のようなもので逃げてるのではないか」
 「推理小説研究会として恥ずかしいとは思わんのか、このうすのろのとんとんちきめ」
 「ミステリーを書けってんだよ。」
 「あんた、てめえの身がかわいくねえのかい。かわいかったらとっとと……」 
 「バカ!バカ!バカ!どうしてミステリー書いてくれないのよ。もう私が嫌いになったの。」
 「うおう、うおう、うおう、うおう、」  等々
 さてこれらの意見に対して、次のような反論がなされました。
 「ミステリーを書けと、かんたんにおっしゃいますが、この限られた紙面で、ちゃんとしたミステリーが書けると思いますか。そげなこつばってん無理ですばい。雰囲気小説のどこが悪いのさ。女だと思ってなめるんじゃないよ。君たちそんなでかいこと言って、自分では書けるのかね。え? 自分のできないことを他人に押しつけるのはいけないことよ。さ、おあそびはそのぐらいにして、おねんねしなさい。」
 そこで僕はどうしたか。「はーい、おねえたんといっしょにおねんねしましゅ」と言っておねんねしたでしょうか。いいえ、僕はムーミンではないのです。
 「よし。俺がやってやる。俺が推理研の名に恥じない大本格ミステリーをぶっかいてやる。俺は男だ。書くのは得意だ。」
 男は豪語すると、手元のマス目を睨んだ。……
 これが私が執筆に移るまでの、大まかな経緯である。



 ああ、手が痛くて動かなくなってきた。本当ですよ。みんな、本当なんだ。痛いんだ。苦しいよ。つらいよ。もうすぐ二時になってしまうよ。でもやらなくちゃ。やらないとおこるやつがいるんだよ。うううううう。あと二ページ。がんばろう。愛は富由彦を救えるか。



 僕が初めて書いた小説を教えましょうか。中二の時に書いたやつで、タイトルは「謎の復讐狂事件」。あらすじは、とある私立探偵事務所に、一人の男が訪ねて来て、「ある男に恨まれていて、そいつはいつも私の命を狙っているんです。いつ復讐されるかとびくびくしています。なんとかして下さい。」男はたまたま事務所でるす番をしていた高名な警部に、そう言って保護を頼みます。警部は私立探偵と親友だったのです。さて、そのうちにある所で、ある殺人事件が起ります。さっきの警部が現場にかけつけると……(中略)……「君が犯人だ」……(後略)どうです? おもしろいでしょう。ふふふふふ。実は内容を忘れてしまいましてね。まあいいや。それ以来、ずいぶん小説を書いてきましたよ。それが僕の生きがいだったんだ。ううう。手が痛い。もうだめだ。これ以上ペンを握る続けたら、けんしょうえんになってしまう。まじだぜ。本当に痛いよ。桜井さん、かんにん、かんにん、いかん、いかん、それだけはやめてくださ……うっ……うっ……うっ……ふざけているばあいではない。見よ。上の段の後ろから三行目と四行目の間を。とうとう行をまちがってしまった。
 中渡瀬「中村君が行をまちがえました。何と言ったでしょう」
 一 同「わかんなーい」
 中渡瀬「ギョッ」
       沈黙
 みんな、聞いてくれ。僕がこうしてふざけたことを書き続けているのは、手の痛みをまぎらすためなんだ。まじなんだ。死にそうなんだ。
 あと一ページちょっと、みんな、僕をなぐさめてくれないか。言葉はいらない、笑顔を見せて。



 とうとう二時を過ぎてしまった。もう泣きごとは言うまい。でも、このあとがきのせいで、作品のイメージが大きく歪んでしまったような気がする。ちく
しょう。どうして俺だけが、こんな苦しみを……。ええい、あと一ページ、負けるものか。俺は推理研のエースになるのだ。エースへの道は厳しいのだ。



 みなさん、「白鳥の歌」いかがでした?
 僕としては、大いなる酷評を期待しています。というわけで、みなさんに指摘される前に、自分からミスを告白してしまいましょう。
 ミスその1
 「陽子は三日の夜、神谷たけ子に電話するため、屋上から食料品売場まで降りてきた。そしてレジの近くの赤電話から電話をかけた。しかしそこは彼女の職
場である。彼女の同僚が何人もそこに居たはずで、陽子が見つけられる可能性が多分にあった。もしそこで顔を見られたら、アリバイ工作は一巻の終りであ
る。どうしてそんな危険な行動をとったのか。」
 ミスその2
 「水谷は3日の夜、名古屋のMホテルで完全なアリバイを作った。ということは、多くの人間に、自分の顔を見せ、存在を印象づけたはずである。しかし彼
は指名手配されている身である。手配写真もあらゆる所に出回っている。どうしてそんな危険な行動をとったのか。」
 ミスその3=最大のミス
 「水谷は逮捕された後、陽子からも二十万円を詐取した、と供述した。陽子は彼を信じ切っているのに、どうしてわざわざそんなことを告白したのか。しか
もそんなことを告白してしまえば、陽子の信頼を失い、陽子に殺人教唆の罪を暴露されてしまうおそれがあるというのに。」
 というのが、さし当って、自分で見つけ出した大きなミスです。捜せばまだあると思います。どんどん捜し出して下さい。そして僕をいじめて下さい。僕はね、ふふふふふ、まぞひすとなのだ。ひひひひひひひひ。



 もうすぐ三時。やっと苦行が終ろうとしている。思えばこの二週間、僕はひたすら鉄筆を握り、原紙をけずってきた。テスト勉強も何もなかった。予習もせずに、ドイツ語の教師にどなられた。クラスの友人は、僕を早くも脱落者扱いし始めた。それをクラブのせいにするつもりはない。ただ、やればできるんだってことを訴えたかった。先輩、もっとミステリーを書いて下さい。一年生のみんな、もっとミステリーを書こうぜ。二度と書けない時が来る前に。(最後、決まったでしょ)