02年3月31日 ワールドスタンダード2
世界を身近に感じる、その度合いが年々高まっている。インターネットによる情報革命。資本主義が国境を越えて拡大(たとえば、トヨタと本田以外の全ての自動車メーカーに、外国資本参入)し、経済競争が激化し、世界システム論が説く不平等な国際分業体制が、グローバリズムの名称でますます進展していることを痛感せざるをえない、日本の経済状況。そういったことを、世界が身近になった理由として挙げることが出来るけど、僕は日本人の人間関係の基本にあった「世間」が、急速に解体にむかっていることも、大きな要因じゃないかと考えてる。

「世間」とは何か、というのは、中世ヨーロッパ史の権威で元一橋大学学長の阿部謹也が最後に取り組んだテーマだった。欧米の「社会」と類似し、「社会」に代替されてきたものの、「社会」とは似て非なる「世間」。近所付き合いから、ワイドショー的マスコミにおいて出現する言説空間にいたるまで伸縮自在かつ重層的にあらわれる「世間」という日本人の人間関係の基礎をなす概念は、極めてやっかいである。が、明確に言えることを数え上げてみよう。
1、日本人の帰属意識は「世間」に対してある(あった)
2、世間はいくつも存在する
3、身近な世間にほど、帰属意識を強く感じる
4、世間でどう思われるか、が大事であって、世間の外の世界に関しては、無関心になりやすい
5、自分が属する世間の利益を優先することで、その世間そのものが属している上部団体の利益
をそこなう場合がしばしばある
昨今話題の外務省に例をとろう。
第二次世界大戦中に、リトアニアの領事代理だった杉原千畝という外交官がいた。ナチスドイツの迫害からユダヤ人を救うために、独断でユダヤ人のためにビザを発行しつづけた人だ。その杉原千畝は、第二次世界大戦後、独断でビザを発行した責任を問われて外務省から解任された。一方、太平洋戦争勃発にあたって、前日の同僚の送別パーティーで寝過ごしため、宣戦布告文書をアメリカ政府に渡すのが遅れ、真珠湾攻撃が宣戦布告前になってしまうという前代未聞の失態をしでかした外務官僚たちは、戦後も外務省にとどまり、順調に出世を重ねた。しかも宣戦布告の遅れに関する事情は、国民に秘匿され続けた。
非道い話である。
外務省を支配するキャリア組は、キャリア組ではなかった、つまり自分たちの身内ではなかった杉原千畝は冷酷に解雇し、失態を犯した仲間はかばいつづけた。彼らが、外務省という「世間」の掟に従い、外務省の省益を守ろうとした結果である。ところが、本来外務省は、外交を通じて国益を追求することが任務だった筈である。では、国益追求のための最善の判断は何だったのか。杉原千畝のイスラエル大使抜擢、である。僕はこのアイデアを小室直樹の著作で知ったけど、確かにそうだ。でも外務省はそうしなかった。国益追求のための機関の筈の外務省が、国益を犠牲にして省益を守ろうとした姿が浮かび上がる。同じようなことは、同時代の日本陸軍のエリートたちの行動にも、しばしば現れる。「お国のため」を口にしながら、軍部の利益を国益より重視し続けた彼らは、大日本帝国を崩壊に導いていくのだ。
もちろん、身内の論理、内輪の利益を最優先するのは日本社会だけの現象ではない。でもそれが、旅の恥はかき捨て、という言葉に見られるような、外部の視点を欠如した「世間」における人間の結合の仕方に顕著に現れるということは言えると思う。
戦前の農村社会の日本において、「世間」はまず何よりも農村地域共同体だった。しかし、戦後の急速な工業化と人口移動で農村地域共同体が崩壊に向かう中、「世間」の中心は「会社」に移る。「会社人間」の登場である。終身雇用、年功序列の神話が、「会社」を世間にした。しかし、この10年間の不況で終身雇用も年功序列も放棄され、会社という世間に頼ることは出来ない、という現実が我々に突きつけられた。また、雪印事件に象徴されるように、「世間」の論理がまかり通る業界や企業ほど、この不況下ではやっていけなくなっている。
「世間のつきあい」にさえ、気を配っておけば良かった時代は終わり、我々は「世間」を介してではなく、個人個人として直接、世間の外にあった「世界」に向かい合わなければならなくなってきた。それが、冒頭に述べた、「世界を身近に感じる」理由ではないか。
「世間」の評価(例えば文学賞。その年一番優れた小説を無条件に選ぶわけでは決してなく、出版社の意向と文壇の人間関係、つまり作家にとっての「世間」に影響される。例えば鈴木宗男。田中外相を喧嘩両成敗で解任に追い込んだ時、彼は「橋本派」という世間からは英雄のごとく迎えられた。あの一瞬は。)という相対的評価の有用性は失われつつある。絶対的評価にこそ、備えなければならない時代が到来しつつある。

02年3月30日 ワールドスタンダード
津原から電話があって、ふと気づくと3時間以上経過。あれやこれやと会話する中で、従来の「日本」文学って、「日本」プロ野球と同じような意味で、世界に背を向けた閉じた文学だったんじゃないか、という話になった。でも、これからはそれじゃ駄目。なぜなら、中田や野茂やイチローの活躍を通じて世界基準でスポーツを観戦することを覚えた同じ人間が、読書においても世界基準を求めないわけがない。あらゆる分野で、世界基準での評価ということが、当たり前になっていく時に、小説の分野だけが、逃れられるわけがない。「俺は意識してきたよ」と、津原。

02年3月29日 ムーブメント
3月7日の雑感で触れていた、古川日出男の対談が掲載された「小説推理5月号」をゲット。対談、巻頭カラー大特集になっていた。さらに皆川博子の寄稿つき。

02年3月28日 とっても怖い話4
古川日出男沈黙』読了。99年に出版されている。重層的に語られる物語がラストに収斂していく構成力の凄さにあらためて脱帽・・・はいいとして、いったいいつ読んでいたのか。ここ数日論述関係の原稿作成の仕事に追いまくられ、春期講習も始まり、本なぞ読んでる暇がどこにあったのか。実は昨日・今日と電車の中で読んでました。今日の場合だと、完成したデータを自ら千駄ヶ谷の教務本部に届けて、午後から講習がある横浜校へ。一コマ授業をこなした後、今度は駒場に移動してあと一コマ。その間の移動時間がけっこうある。それが読書タイム。でも、この3日間、合計で8時間くらいしか寝てないので、この移動の間の時間というのは、本来貴重な睡眠時間だったはずなんだよな。というより、ここで寝とかないとほんとにやばい。頭痛がしてるわ、意識がふっといっちゃうわ、やばいよ、やばいよ、と身体がシグナルを出している。なのに『沈黙』が寝させてくれないんだよ。
恐るべし、古川日出男。

02年3月27日 とっても怖い話3
結局徹夜をしたあげく、仕事完成せず。電話でわびを入れてあと1日もらう。それにつけてもハードディスククラッシュの恐ろしさよ。2年前の出来事が、ここまで祟るとは、と反省しきり。しかも徹夜明けのまま、本日より春期講習開始である。保つのか、俺。

02年3月26日 とっても怖い話2
昨日も4時間しか寝てないが、今日は、といってももう27日の午前3時だが、ほとんど寝れそうもない。論述関係の仕事の〆切、なんとかなるとたかをくくっていたら誤算があった。2年前のものを基盤に、新しい問題に1/3ほど入れ換える修正作業が本来の仕事の中身であって、新規の修正部分は実はもう出来ている。ところが、もとになる原稿、プリントアウトしたものはあったけど、データがない。2年前にやってしまったハードディスククラッシュできれいさっぱり消え去っていた。クラッシュ前2カ月、バックアップを怠っていた。その時期のものだということをうっかり失念していた。打ち直しである。プリントアウトした原稿を見ながら、一からパソコンに向かって打ち直している。2年経つと自分でも気に入らない部分が出てきているから、そういうところはよせばいいのに一々訂正しながら打っている。お莫迦である。

02年3月25日 とっても怖い話
今日はまず集英予備校時代に同じ社会科の講師だった先生方と楽しく昼食会。思い出話にも花が咲き、さて、夕方帰宅してみると、さっき電話があったわよ、と含み笑いをしながら妻が一言。論述、明日、それだけ言えばわかりますから、と言ってたわよ。

02年3月24日 読書の快楽
皆川博子死の泉』読了。「脇道にそれるようなエピソードや蘊蓄の披瀝が、実はすべて、物語が必要とするアイテムになっている」とは、皆川博子がの『蘆屋家の崩壊』(集英社文庫)に寄せた一文だが、その言葉は、本人のこの書にも相応しい。いや、堪能しました。第二次世界大戦中と、戦後ドイツ社会が克明に再現されているので、小説など読まないが、この時代には興味がある、という人にもお勧め。

02年3月23日 卒園式
次男が通っているの卒園式。うちの息子の卒園はまだだが、懇親会と謝恩会も一緒にやるので出席する。卒園生は、この日、日頃練習してきた「側転」、「縄跳び」、「まりつき」、「こままわし」を披露。昨年の卒園式での長男の姿を思い出す。この他、鉄棒も練習していて、うちの長男の場合は、卒園時点で空中逆上がりを連続でこなせるようになっていた。小学生の間は「運動が出来る子」には居場所がある、ので小学校に上がる前に、こうした技を仕込んでおく、というのが園の教育方針。自らの小学校時代(運動が出来る子、とは言い難かった)と長男のこの1年を省みて激しく同意。有り難し。

02年3月22日 これは便利だ
関係ので話題になっている、五十音式整理方(仮)を参照するため、のサイトへ。ここのエッセイコーナーにこの方式がいかに優れているかという実にわかりやすい解説があり、画面の実例もあったので早速真似してみる。整理整頓が、片付けが、何より苦手なこの私にも、これなら出来る。

02年3月21日 東南アジア料理も食いたい
1日、論述問題の模範解答作りに追われる。煮詰まってふと思い立ち、インターネットの検索サイトであるGoogleで、「津原泰水 妖都 講談社文庫」で検索をかけたら、がトップに。もう一つ、Gooでも同結果。何故?

02年3月20日 豆腐と蟹が食いたい
午前6時21分、青梅線の羽村駅発東京行きに乗車。午後10時30分羽村駅帰着。大阪日帰り会議は洒落になんねえ。
帰宅途上、駅の本屋で新潮文庫から出たばかりの蘆屋家の崩壊』を買い求める。豆腐好きの猿渡という三十路を過ぎて定職にもつけないでいる人物の一人称で語られる幻想怪奇連作短編集、というのがてっとり早い説明だろうか。作品中、特に「ケルベロス」と巻末「水牛群」は、幻想によってしか表現しえない心の痛みを描出することに成功した傑作。単行本で出たときにも買って持ってるのだけど、今回文庫化で短編一本が追加されたのと、解説皆川博子でまたまた買った。津原作品ではもっとも間口が広い本なので、津原泰水をまだ一冊も読んでいないという不幸な人は是非。
読みながら、藤沢周平といい、山田風太郎といい、好きだった作家はいずれも連作短編の名手であったなと思い返す。

02年3月19日 デチューン
ホームページ全体の容量が増えて、ちょっとまずい状況になったので、白地図データ室のダウンロードサービスを停止します。ここのところ誰も利用していないみたいだし。

02年3月18日 そしてまた労働の日々
3月20日に大阪にて会議。同日『明中立大世界史』改訂のための第一回〆切。会議の資料準備と問題集の問題作成のため1日中仕事。その間気分転換のための作製。
気分転換、なってないって。

02年3月17日 子供は不思議だ
午前中、息子二人を引き連れて近所の床屋さんで散髪。長男は天然パーマ、次男はストレートと、全く髪質が違う。好きな食べ物も違う。一つのことに熱中すると、廻りのことが見えず聞こえずになる長男と、やたら移り気な次男と、性格も違う。でも根幹の部分で、兄弟としかいいようがない共通性がある。遺伝子の力はでかい。

02年3月16日 子育ては体力だ
本日は長男は隔週で学校がある土曜日。次男は保育園が毎週休みの土曜日。というわけで、長男がいない午前中、4歳の次男は兄の意向を気にすることなく、父を引きずり回す。まず、一番近くの小さな小さな町内会の公園に補助輪付き自転車で行って、すべり台で一通り遊ぶと、そのまま羽村市北隣の瑞穂町にある松原中央公園へ。隣町と行っても徒歩15分程。ここには人工の小川があるのでその廻りを探索し、一旦帰宅(ここまでで約1時間。まだ午前9時30分)。今度は父の運転する自動車で西隣の福生市の児童館へ、ついでに隣接する公園にもちょっと浮気。ここでも1時間もたず、また一旦帰宅した後、今度は自動車で東隣の青梅市にある花木園へ。全長200メートル以上のローラー滑り台とアスレチック施設で存分に遊んで、やっと午前の部が終了。

02年3月15日 束の間の休息
午後13:00より世界史講師の岡田氏夫妻と日本史講師の太田氏と食事会。昼間から酒を飲む。予備校講師になって良かったと思えるのは、こうして平日の昼間から酒飲むことができることだよねー、と岡田氏。でも、この時期だけなんだよねー。と自分で自分に見事な突っ込み。そうです。3月の前半って、丁度年度と年度の継ぎ目で、我々の場合授業したくても授業がない(1・2年生を担当していれば別)。授業がないからその分の収入もないけど、時間だけは比較的ある、いわゆるオフの状態。でも、油断しているとすぐそこまで各種〆切が迫っている。うえに、3月も下旬になれば春期講習も始まってしまう。プロ野球オープン戦のニュースを聞く今日このごろ、我々もまたそろそろ本番モードに入っていかなくては、と思うわけです。
でももうちょっとまどろんでいたいな。

02年3月14日 ホワイトデー
に以前無理を言ってかみさんに描いてもらったミロのヴィーナスの画像リンクを追加。よくみるとヴィーナスのどこかに絆創膏があります。さて、著作権の関係から画像資料は、これからも模写でいかざるをえない。当然、自分では描けないのでかみさんに描いてもらうしかない。でも実はまだ承諾をとってないんだ、これが。ただでさえ忙しい彼女が、果たして描いてくれるのか。

02年3月13日 小石のように
を追加。
午後7:00より、津原の上京をネタに青山ミステリのOBで飲み会。といっても泥縄式に決めた上に平日だったので、集まることが出来たのはごく少数。最初に来たのは、編集者やってる青島さん、次いで翻訳家の日暮さん、書評家の茶木さん、で津原が登場してその後も作家の北原さん、最後、一次会が終わろうという時に、某大手書店勤務の同期の熊谷が出現。と、なんだおいら以外は皆出版関係業界人じゃん。思えば変わったサークルにいたもんである。

02年3月12日 母来る
数年ぶりに母親が上京。近親や田舎の友人たちの消息を聞く。みんな苦労している。それはこうゆう時代やけんしょうがないんよ、と母。証券会社の営業レディを昨年までやっていて、バブルの絶頂とその後に訪れたバブル崩壊後の証券不況を生き抜いてきた人の言葉だけに、重みがある。

02年3月11日 忘れた頃に
夕方6時頃、九州旅行より帰宅。荷物を下ろして、ひと息ついたところで、いきなり携帯が鳴って、河合塾のテキスト校正の打ち合わせ。絶妙のタイミングである。

02年3月10日
朝、運転再開したばかりのロープウェーで長崎市内を一望できる展望台へ。周囲を海に囲まれた斜面都市長崎の全景を見下ろして、ここにオランダ船や中国船が入ってきたのかと思いを馳せる。そのあとカクレキリシタン発見と原子爆弾の被爆で有名な大浦天主堂近辺へ。しかし、余りに時間がない。11時より次の目的地有田に向かって出発。有田は、わが国の磁器発祥の地。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、肥前鍋島藩によって日本に連行され、その後有田の地で日本で初めて磁器を焼くことに成功した李参平の墓もある。しかし、あまりに時間がない。李参平の墓はあきらめて、陶磁器好きのかみさんのために窯元の出店が集中する卸団地へ。あまりに時間がない。ホントは半日見て回っても足りないだけの店があったにもかかわらず1時間半ほどで店巡りを中断。4時より、有田より2駅のところにあるハウステンボスへ。8時まで4時間ほどハウステンボスに滞在。あまりに時間がない。4時間では完全な消化不良。ハウステンボスを甘く見ていた。一つの実験都市を形成しているという点では、ディズニーランドよりすごい。ディズニーシーは、ハウステンボスがなければあり得なかったということが、ここに来てみるとよくわかる。個人的には今回徳川家康に仕えたイギリス人船乗りウィリアム・アダムズのリーフデ号の旅を再現するアトラクションを体験できたのがラッキー。航海の難所とされるマゼラン海峡の、狭い水路の両側にそびえ立つ氷壁の恐怖や、当時の海戦を実感。結局、今日回った長崎、有田、ハウステンボスは、それぞれ再訪を誓って後にすることに。

02年3月9日 いい日旅立ち
今日より11日まで2泊3日で九州家族旅行。1日目は博多駅の近くで昼食に本場の博多ラーメンを食しておいてから、特急カモメで長崎へ。長崎では新地中華街で夕食にチャンポン。息子たち(特に次男)のメインの目的は特急王国の九州で色々な特急列車を見て、出来れば乗ること。親は本場のとんこつラーメンとチャンポン制覇。そういう意味ではまずまずの旅行初日。

02年3月8日
午後病院で花粉症の診察。夜1粒飲んでいた抗アレルギー剤を今日より2粒。今までの点鼻薬に加えて点眼薬も出してもらう。それでも例年より速めに対応した分、今年は今のところ随分ましな状態。

02年3月7日
『アラビアの夜の種族』の著者、古川日出男氏に会ってしまった。山内生涯の大事件であるので朱筆してここに記す。「小説推理」誌が、幻想文学の旗手、といった内容でと古川日出男の緊急対談を企画。そのため広島から上京してきた津原と何人かでその対談後飲む約束をしていたら、対談が盛り上がった古川氏がそのまま津原と一緒に登場と相成った次第。(でも言及されてます)。
『アラビアの夜の種族』の参考文献、結局本人から聞き出してしまいました。

『アラビアの夜の種族』は、ナポレオンのエジプト遠征に直面したカイロにおいて、対抗手段として読む者を狂気に導く『災いの書』を作り出し、ナポレオンに献上する計画が密かに進行する、といった設定で物語りが進む。迫り来るナポレオン軍の現実と、この世に一冊だけの『災いの書』を作り出すため、謎の女性が語る幻想的な物語りの描写が交互に続き、ついにナポレオン軍がカイロに入場する終局において、幻想と現実は破滅的な出会いを遂げる。『災いの書』の内容たる幻想的な物語りの虚構は、ナポレオン軍到来という厳しい現実と対置されることで、よりその魅力を増すという仕掛けになっている。
さて、このような仕掛けにおいては、現実場面の構築がいい加減だと途端にその効果が減じる。僕が感嘆したのはまさにこの現実場面が綿密にリアルにしかも、読者の興味を賢しらな衒学趣味で減じることなく構築されていることだった。古川氏は、その現実場面の描写については、95パーセント以上、厳密に史実に基づいて構築しようと努力したと語ってくれたけど、これはホントに大努力。聞いてみるとやはり、『カイロ』『東方の夢』といった僕が当たりをつけていた単行本だけでなく、「地中海叢書」というシリーズの論文集のカイロの市民生活についての専門論文まで渉猟していた。そして、『アラビアンナイト』。アラビアンナイトにはレーン版、バートン版、マルドリャス版など様々な版があるのだけど、そのうちのバートン版とマルドリャス版をそれぞれ注まで含めてきっちり読み切ってる。しかも、資料とする目的で読み込んでいる。アラビアンナイトの膨大な分量(中には随分つまらない話も多い)を考えると、これだけでも大変な作業量で、いや、凄いよ、これは。


02年3月6日
司法書士の鈴木さんと、有限会社設立の最後の打ち合わせ。3月1日付けで工房李香も有限会社となりました。

02年3月5日
午前一橋大学のオープン模試のフレーム会議。午後は東大オープン模試のフレーム会議。出題内容を検討。同じようなことをみんな考えていて、会議はとっとと終わる。いつもこうだと楽なんだが。夜、の製作続行。作業量多。プラモ造りなどと同様の趣味と、開き直るしかないのか、自分。

02年3月4日 闘う君の唄を
午前中はずっと校正の仕事。午後は初めての授業参観。小学校1年生の長男の音楽の授業。1クラス23人で、4人づつ班を作り、前に出て歌ってピアニカ演奏。微笑ましいというか、面映ゆいというか。
夜は9時に子供を寝かしつけてついでに一緒に寝て12時頃起き出し、再び仕事。で、3時か4時頃就寝して6時20分(長男がこの時間に目覚ましをセットしたまま)に起きる予定。これは最近の生活パターンになっている。睡眠を分割してとるのは、ソフトテニス(と今では言うそうだ)の部活動に没頭して帰宅して飯食って風呂入ったら一旦寝るしかなかった高校時代についた習慣。こんなところでも、高校時代からあまり変わっていない自分を確認。
ただ、僕の場合は小学校入学の頃から高校生になる頃までがけっこう大変だった。特に小学校時代は危うく不安定で、うちの母親など小学校3年の時に担任との面談で、「お宅のお子さんの場合、何とかと何とかは紙一重といいますが、ホントにそうですね」と嫌味たっぷりに言われている。確かに精神的な不安定さの代償のように、人生で一番冴えていた時期ではあった。でも、この頃は両親を初め周囲にも、まだ若くて自分でも子育てに追われていたはずのその担任にも無茶苦茶な迷惑をかけたし、クラス内の異物として仲間外れにされたりもした。封印している記憶も相当ある。あの頃の自分に帰りたいとは決して思えないし、よくぞ、部活に熱中する平凡な高校生になりおおせたものだと思う。それだけに、「そっくり」と言われることが多い長男には、何とかこの時期を乗り切って欲しいと切に願ってしまったりするのだった。
親馬鹿ですな。

02年3月3日 パンとサーカス
昨日ゲットした純米酒とワイン、高橋家を招いて飲む。本日のつまみは、ハム・チーズ・ツナにトマト・キュウリ・ピーマン。適当にクラッカーに乗っけて食す。生ばっかりだとどうも、という話になって、酔っ払いながらフライパンをふるい、ハムと野菜のオリーブオイル炒めを作る。途中からかみさんの手によるキムチやおにぎりも登場。午後3時くらいから8時まで、子供同士は勝手に遊ばせながら、飲んで食って談笑。イタリア人になった気分。

02年3月2日 本物
青梅・羽村地区の「生活クラブ生協」の展示販売会の参考にするため、かみさんのお供で東大和の「生活クラブ生協」の展示販売会を視察。無添加純米火入れ無し、3日以内で飲んでくれのつくりたて純米酒と、本物の、無添加減農薬ワインをゲット。昨今の雪印事件など見聞するにつけ、「本当に安心できるいいもの」を自分たちの力で入手しようというこういう活動って重要であるとつくづく思う。

02年3月1日 この世で一番苦手なこと
この日を持って新年度のスタートとしよう、と勝手に決めて、悲壮な決意の下、まなじりを決して、部屋の片付けにとりかかる。大仕事。一日ではとても終わらん。で、文化史ノートの製作開始。まずはから。