東京ディズニーランドのシンボル,シンデレラ城のモデルはドイツ南部のバイエルン州にあるノイシュバンシュタイン城と言われる。ノイシュバンシュタイン城の建築主であるバイエルン王ルートヴィヒ2世(在位1864〜1886)は,幻想的な王城造りに情熱を傾けて莫大な負債を背負い,精神異常者として強制退位させられた直後に謎の死を遂げて,世に狂王の伝説を残した。

 ルートヴィヒ2世はまた,楽劇の創始者ヴァーグナーの最大の庇護者としても知られる。1864年,18歳で即位したばかりのルートヴィヒ2世は,心酔するヴァーグナーをミュンヘンに呼び寄せた。ザクセン王国の宮廷劇場指揮者であった1849年,革命運動に関与してスイスに逃亡したヴァーグナーは,当時債務から逃げ回る日々を送っていた。王は全ての負債からヴァーグナーを解放し,王都ミュンヘンに大邸宅を与えた。バクーニンと意気投合したかつての革命家は,国王によってどん底の状態から救われた。

 しかしその国王は,かつての専制体制の絶対君主ではなかった。1806年にナポレオンが結成したライン同盟の中心であったバイエルンは,ドイツ諸邦の中でいち早く憲法制定などの近代的改革を推進し,国民国家体制を樹立した立憲君主国だったのである。国家の重要問題の決定権は,国王ではなく議会と内閣にあった。ロシア皇帝の専制権力を理想としたルートヴィヒ2世は,即位後,立憲君主制のもとでの無力な国王としての現実に直面する。国王の友人として政治に口出しするヴァーグナーは,ミュンヘン市民とバイエルン国家官僚の反発を受けた。1865年,総辞職を賭してヴァーグナー追放を迫る内閣に対し,ルートヴィヒ2世はヴァーグナーの退去命令に署名する。

 翌66年には普墺戦争勃発。ルートヴィヒ2世は戦争を嫌悪したが,議会と内閣はオーストリアとの同盟を決定した。しかしバイエルンはオーストリアとともに惨敗。プロイセンとの攻守同盟の締結を余儀なくされる。1870年普仏戦争勃発。ドイツ統一に抵抗する南ドイツ諸邦の盟主バイエルンも,攻守同盟のもと,プロイセン軍とともに参戦。戦争は,ドイツナショナリズムの熱狂にバイエルンを巻き込んだ。ナポレオン3世を捕虜としたセダンの戦いの劇的な勝利を機に,北ドイツ連邦への加盟を求める請願書がバイエルン各地から殺到する。こうした状況下にプロイセン首相ビスマルクは,皇帝書簡と通称される文書の素案をルートヴィヒ2世に送りつけた。それは,バイエルン王がプロイセン王をドイツ皇帝に推戴する内容のものであった。同封した私信でビスマルクは,皇帝戴冠の発議が民衆代表からでなく諸侯代表であるバイエルン国王からなされることの重要性を説いた。さもなければ,統一は君主的ではなく,民主的な性格を帯びることになるでしょうと。ルートヴィヒ2世はここでも屈服せざるを得ない。1871年ヴェルサイユ宮殿鏡の間において,ドイツ帝国の樹立は宣言された。

 現実の政治に翻弄され,君主としての夢に挫折したルートヴィヒ2世は,産業資本主義が勃興する世相に背を向け,築城とヴァーグナーの庇護に王室財政を傾けた。ヴァーグナーが小都市バイロイトに建設を計画した専用劇場に対し,資金の大部分を提供したのもルートヴィヒ2世であった。1876年バイロイト祝祭劇場において,ルートヴィヒ2世がその完成をかねてから待ち望んでいた大作『ニーベルンゲンの指輪』の初演が行われる。

 しかし,1876年のバイロイトの主役は,第一回公演に束の間姿を見せただけのドイツ皇帝ヴィルヘルム1世だった。ヴァーグナーは,ゲルマン神話と伝説を素材とした『ニーベルンゲンの指輪』の公演をドイツ民族の祝祭として行おうと画策したのである。皇帝臨席の効果は絶大で,ヴァーグナーはドイツ国民の音楽家として声望を高め,その楽曲はドイツ民族統合の精神的象徴と見なされるようになった。それとともに晩年のヴァーグナーの周りには,反ユダヤ主義者や社会ダーヴィニズムの徒が集まるようになる。ヴァーグナーの娘婿であるイギリス人チェンバレンは,ゲルマン民族の優越性とユダヤ人の排斥を主張した反動思想家として名高い。

 ヴァーグナー没後40年の1923年,チェンバレンは,ヴァーグナー音楽とチェンバレン思想の熱烈な崇拝者をバイロイトのヴァーグナー家に紹介した。ミュンヘン一揆決行直前のアドルフ・ヒトラーその人である。10年後,首相となったヒトラーは,ノイシュヴァンシュタイン城を訪れ,ルートヴィヒ2世の遺志を継いでヴァーグナー音楽の庇護者となると宣言した。没後50年にしてヴァーグナーは,狂王の夢が宿るノイシュヴァンシュタイン城において,ナチス第三帝国の悪夢に囚われることになる。