第十回 「ルピナス」の花はどこに咲くのか?
〜『ルピナス探偵団の当惑』を形式的に読む〜



 ★下記の文章には、『ルピナス探偵団の当惑』をはじめ、泡坂妻夫亜愛一郎シリーズ」やG.K.チェスタトンブラウン神父シリーズ」のネタバレ記述があります。これらの作品は、ネタバレしたくらいでつまらなくなるような駄作群ではありませんが、念のためにご注意申し上げます。



 日本推理小説界における「新本格」ムーヴメント(※注1)は、島田荘司の出現に始まり、京極夏彦の登場によって幕が引かれている。いまでもその延長線上で書かれた作品が数多く出版されているが、それらは自身が死んでいることに気づかないゾンビの如き小説でしかない。

 そもそも、「新本格」の中心人物であった綾辻行人の「館」シリーズは昭和20年代以前の探偵小説にすぎず、法月綸太郎の苦悩は―それ自体真摯な態度であり共感できるものではあるが―半世紀以上前にエラリー・クイーンが悩んだ問題とおなじであって、たとえそれが推理作家として避けられない問題であったとしても、先行した人間と同じように悩んでみせるのは、とてもプロの小説家とはいえない。

 歴史は繰り返すが、マルクスがいうように二度目は“ファルス”でしかないのだ。

  *

 都筑道夫は約30年前に上梓した『黄色い部屋はいかに改装されたか?』の中で、「ホワイに重点をおいて、その解明に論理のアクロバットを用意する。これが、現代のパズラーです。」といっている。同書は、松本清張を中心とした社会派推理小説の隆盛に対し本格推理小説の復興を試みたものであるが、その後一大ムーヴメントとなった「新本格」は、残念ながら都筑が希望したようなものではなかった。

 しかし、「新本格」の渦中にいながら、都筑の望むもの、いやそれ以上の作品を書いてみせた作家がいる。

 「亜愛一郎」シリーズの泡坂妻夫である。(※注2)

  *

 「亜愛一郎」シリーズは80年代前半に書かれたものであるから、年代的には「新本格」直前の作品群であるが、それらよりも間違いなく新しい小説である。

 「こうして見ると、東巨という画家は、さまざまな絵の間違いを、わざ(・・)(傍点原作ママ)と描いているように思えますね」

 「わざとだって!」

                                    
 「藁の猫」(『亜愛一郎の転倒』所収)


 亜愛一郎は、粥谷東巨という画家が、何故わざと間違い―六本指の少女や重力を無視した水差しの水など―を描き続けたのかという疑問に答え、東巨とその愛人の死にまつわる謎を解き明かしてみせる(厳密には、亜がその不可思議な絵に気づくまで、誰も東巨たちの死を謎と認識していなかったのだが)。


 「藁の猫」は「ホワイに重点をおいて、その解明に論理のアクロバットを用意する」という都筑の意を汲んで書かれたような作品である。亜愛一郎シリーズでは、この他にも、飛行機のタラップでわざと躓く男や死体を童謡の歌詞のままに〈鉄砲で撃って〉〈煮て〉〈焼いて〉〈食って〉〈木の葉で隠す〉といった、「ホワイ」をめぐる事件が記されている。

 もちろん、泡坂はなにも都筑の主張に賛同するために亜愛一郎シリーズを書いたわけではない。

 「けれども、ただ似ているだけでは、少しも驚かなかったでしょう。程度の差はあるにしろ、これまで何人ものそっくりな人を見せられていましたから。僕が箱森さんを一と目見て、自分の目を疑い、天地がひっくり返るほどの驚きを感じたのは、そうです。箱森さんは一生懸命、珠洲子さんに似せ(・・)まい(・・)(傍点原作ママ)としていたからに他なりませんでした」

  「似せまい、ですって?」

  棚田が頓狂な声をあげた。

                                    
  「珠洲子の装い」(前掲書所収)


 夭逝したはずのアイドルのそっくりさん大会に出てきた、似ているけど、似せまいとしている少女の「ホワイ」。亜はその理由を解き明あかし、

 「人間がかばに変相するのは大変むずかしいでしょう。猿に化けるなら少しは楽かもしれない。人間の男が人間の女に変相するのならもっと楽になります。男が同年輩の男に変相するなら、大分楽です。最後に自分が自分に変相するのが、最も楽な仕事でありましょう。ということで、加茂珠洲子さんは、加茂珠洲子さんに変相することに決めたのです」


 と、ことの真相を看破してしまう。


 他人ではなく、自分自身に変装する少女、という逆説。

 ここで、わたしたちはひとりの偉大な作家を思い出すことになる。

 木の葉は森に隠す、では死体はどこに隠すかと問う作家。たしかに存在していたはずなのに誰の目にも見えなかった男の正体を明らかにする作家。

 そう、G・K・チェスタトンである。(注3)


※注1
1970年代イギリスにおいて、コリン・デクスター(モース主任警部もの)、ルース・レンデル(ウェクスフォード警部もの)といった作家たちも「新本格」と呼ばれたことがある。もちろん、その作品内容は日英では大きく異なっている。
※注2
ここでは取り上げないが、「矢吹駆」シリーズの笠井潔は、泡坂と同じように「新本格」の渦中にいながら、というより、積極的にそれに荷担しつつ、その過剰さ・野蛮さゆえ「新本格」を超えてしまっている。笠井も「新本格」直前の作家であるが「新本格」より新しい作家である。
※注3
ここでこれ以上、チェスタトンと泡坂妻夫の関係について触れることはないが、チェスタトンの名は、またすぐ現れることになるだろう。


   *



 津原泰水の短編集『ルピナス探偵団の当惑』は、極めて都筑的な謎に満ちているように見える。

 なぜ犯人は冷えたピザを食べなくてはならなかったのか。

 なぜ被害者はルビの付いたダイイング・メッセージを残したのか。

 なぜ急死した老女優の右手が切断され消えたのか。

 そういった「ホワイ」を重点とした謎が語られていくかのように思われる。



●「冷えたピザはいかが」(以後「冷えたピザ」と略)


 犯人は意外ではなかった。その夜、教創社の編集者勤野麻衣子はエッセイスト岩下瑞穂のマンションを訪れ、彼女の次作についての打ち合わせをおこなった。用件を終えた麻衣子はマンションをあとにし、吉祥寺駅前のカフェテリアで食事。その最中に意を決し瑞穂のマンションへと引き返した。

 麻衣子は下駄箱の上にあった置物で瑞穂の頭部を殴り、殺害。部屋にあがり翌日になってから暖房が効きはじめるようにエアコンのタイマーを設定すると、瑞穂の仕事机の上にあったピザを食べ、会社に戻った。


 この作品で、読者は予め犯人を告知されてしまっている。しかし、いわゆる「倒叙もの」のように、犯人の心理や行動が全て事細かに読者に示されているわけではない。読者は犯人の名前を知らされ、その犯人がどのように殺人をおかしたのかという事実経過をも知らされながら、ただひとつ、何故犯人が冷めたピザを食べなくてはならなかったのかという謎だけを残される。


 ピザの謎は彩子の推理(=論理のアクロバット)によって解明されるのだが、犯人を決定的に特定してみせるのは、キリエの言うように彩子の「推理」ではなく、祀島の「観察」である。一般的推理小説は「観察」によって「推理」が成立していく(注4)ものだが、ここでは、「観察」はたんに犯人を名指すためだけにある。

 謎の重点はあくまで、犯人がなぜ冷えたピザを食べなくてはならなかったのかということであって、犯人が誰であるか、さほど問題にはならない。そうでなければ、作者がはじめから犯人を告知したりしてはいない。ただ、なぜ探偵(たち)が犯人を特定することができたのかということを示すために、祀島の「観察」は書かれる必要がある(その「観察」と「認識」の重要性をあらわすための伏線として、甘味屋のトイレのかぎのエピソードがある)。

 「倒叙もの」のように、はじめから犯人の行動や心理を包み隠さずあらわすのではなく、犯人の名前のみ知らされ、その行動や心理が解かれるべき謎として提出されるという構成。

 「ホワイ」に特化された謎。

 都筑的「パズラー」を突き詰めたかたちが、ここにある。


 論理的であるということは、推理小説の必要条件であって必ずしも十分条件ということではない。「冷えたピザ」でも論理的であろうとするあまり、小説自体が停滞してしまうことがある。

 津原泰水はキャラクター造形に秀でた作家であり、今回もレギュラーたる登場人物たちの言動は、作者のコメディ資質が久々に表現されているせいもあるだろうが、非常に洒落ていて躍動的である(これはどたばたしておちつきがないという意味ではない)。

 だが、たとえば、エアコンのコントローラーによるアリバイに関する推理の場面などにみられるように、極めて丁寧に細心に思考してみせるがために、作品全体の滑らかな流れを堰き止めてしまっているときがある。それまでフリーウェイを快適にドライヴしていたはずなのに、それを邪魔する信号機のように、コントローラーが立っているようなのだ。

 持ち去られたコントローラーについては、ピザの謎と密接に関係しているため、どうしても解決しなくてはならない問題であるのだが、「推理」というものを徹底して論理的に行なうということは―クライマックスでは段階的な知的興奮を呼び起こすことも可能だが―反証をひとつひとつ潰していくというような地味な思考作業を手続きとして必要とする。

 そこに作者の善意はあるが、読者の興奮は存在しにくい。



 これは、たぶん都筑的「パズラー」の構造的な問題である。最終的にひとつのイエスをいうために、全てのノーを潰していかなくてならないのであれば、どうしても小説の流れは停滞せざるをえない。

 だから、多くの推理小説は、その停滞を回避するために、ひとつのイエスだけを声高に叫び、多くのノーの存在をうやむやにする構成になっている。文字どおり問題を避けて通って行くのだ。

※注4
それを徹底して明らかにしてみせたのが、京極夏彦の『姑獲鳥の夏』である。



●「ようこそ雪の館へ」(以後「雪の館」と略)


 「私はここで待ってる」不二子が後ずさる。「なんとなく見るに耐えない。正直―こういう重たい結論になるとは想像してなかったのよ。ピンチになったら読んで」

 キリエと摩耶もドアから離れた。

 祀島くんがドアを開き、中に入っていく。私も、すこし躊躇したあと、つき従った。


 探偵として、「冷えたピザ」では彩子の補佐的存在であった祀島が、ここでその役割を一歩前進させる。さらに彼は、次の「大女優の右手」において、やむを得ない事情があったとはいえ、完全に探偵役を演じることになる。

 間違いなく外連の作家である津原泰水は、『ルピナス探偵団の当惑』をたんなる短編の集まりとすることを潔しとしていない。

 だから、祀島の探偵としての重要性が作品の度に増していき、「雪の館」の密室トリックの謎解きに「冷えたピザ」における甘味屋のトイレの錠のエピソードが語られ、「大女優の右手」の伏線が「冷えたピザ」のなかにも存在する。(※注5)


 「雪の館」のトリックの主題は「逆転」である。

 著名な作詞家である天竺桂雅の実際の詩作担当者が弟の聖であったということはさほどでもないが、漢字にふりがなをふったと思われたルビ付きダイイング・メッセージが、実は、ひらがなのダイイング・メッセージに犯人が漢字を書き足したものであり、本来外部であるはずの中庭が内部(この中庭は密室として、わたしたちの前に現れる)のようにみえて、やはり外部であったという謎解きがあり、その密室のトリックは、出入口の二枚の戸をまるごと外して、その裏と表を蝶番ごといれかえたという執拗さである。


 津原泰水という作家が偏執的だというのではない。偏執的なのは犯人たちのほうである。だから、そのダイイング・メッセージのトリックが見破られてしまえば、必然的に密室のトリックも―それぞれの実行犯が別人でも―判明してしまい、その正体も明らかにならざるを得ないのだ。


 ここで、この認識の「逆転」を「逆説」、と言いかえることは可能だろうか。ふりがながメッセージとなり、内部が外部となる。そこに、「冷えたピザ」における食前と思われたピザが食べ残しだったという事実も加えることは可能だろうか。


 わたしたちは、またしても、あの偉大な作家の名を口にすることになるのだろうか。

 はたして、津原泰水が、かの作家の子孫であることを、次の「大女優の右手」が証明してみせる。


※注5
彩子は喫茶アルケオプテリクスのマスター久世真佐男の第一印象を「眼鏡を別にすると、これといって特徴のない面立ちの人物で、年齢も二十代の後半から四十代までのどのへんともとれる。」といっている。


●「大女優の右手」(以後「右手」と略)

  祀島くんはふり返り、「久世さん、ちょっとお願いが。眼鏡を取ってみてください」

 「厭だ」と云いながら微笑している。「だって俺、消えちゃうんだよ」


 久世真佐男は「ネガティヴな個性」しか持たないがゆえに、誰からも注意を引きつけることがない。だから、誰からも見えない男として、舞台のこちらとあちらを自由に往来することができる。その存在は淡くはかないものでしかない。まるで、チェスタトンの作品に出てくる、客からは給仕に見え給仕からは客に見える男のように。


 久世は、実は贋者ではないかと疑われていた大女優野原鹿子の正体を確定させないため、彼女の最大の特徴であると噂されている多指の切除痕が残っているらしい右手をこの世から抹消してしまう。野原鹿子の右手がない以上、野原鹿子は野原鹿子として扱われることとなり、唯一生き残っている親族として、久世は彼女の遺産を相続することができることになる。


 というのは、おもてむきの真相である。

 ほんとうの真実(!)は、野原鹿子は少女時代に既に死亡しており、その後、野原鹿子として活躍した人物は、彼女のそっくりさん米田明子だったというものだ。久世は米田明子を野原鹿子として存在させるために、彼女の右手を消し去った。米田明子の右手にある手術痕は、多指を切除したものではなく、切除したかのように(=野原鹿子がそうしたように)見せるためのもので、久世の犯行は、検死によってそのことが明らかになることを回避した一世一代の「イリュージョン」だったのである。

 贋者を本物とする行為。欺瞞が真実となる、大いなる逆説。


 さらに、わたしたちはもう一つの逆説に気づく。

 久世の犯行に積極的に荷担する探偵祀島である。

 推理小説は原則として、犯罪によって破綻した共同体を真相の暴露という手段によって再生させる物語である。その意味で、探偵は病を治す医師のような役割をはたす。探偵は共同体を再生させることを目的としているので、たとえば、J・D・カー連続殺人事件』のフェル博士やA・クリスティオリエント急行の殺人』のポワロのように、真実と異なった解決方法を選択することが、ままあるものだ。祀島は、フェル博士やポワロよりも積極的に真実を隠蔽しようとする。だから、これまで以上に探偵としてたちふるまうようになる。

 真実を隠すために探偵になる=真実を隠蔽する探偵という逆説。



 もはや多言は要すまい。犯人が見えない男で、その犯行の動機が贋者を本物にするということ。加えて、真実を明らかにするのではなく、それを隠蔽する探偵の存在。これほどチェスタトン的主題に充ち満ちた小説もあるまい。

   *

  『ルピナス探偵団の当惑』は都筑的「パズラー」の形式に則りながら、チェスタトン的主題を反復することによって、その可能性と限界を明らかにしてみせた。というような総括は、実のところ、この作品の可能性のごくわずかしか示していないばかりか、チェスタトンの可能性をも奪ってしまう。
 『妖都』や『少年トレチア』といった、クライシスがカタルシスとなる小説を書いてしまう作家にとって、形式は意味をなさない。津原泰水は「物語」が破綻することをおそれていない。彼は「小説」が「物語」の破綻をのぞむなら、迷わずその願いを叶えるだろう。それは「形式」や「主題」ではなく「精神」の問題であり、チェスタトンの可能性もそこにしかない。

 
 泡坂妻夫も津原泰水もチェスタトンの血統であるが、後者のほうがその血は濃いようだ。かの偉大な作家は、このように優秀な遺産相続人が出現したことを喜んでいるだろうか。



◎ 『ルピナス探偵団の当惑』……評点6.0

                            了



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