出題年:2007年
出題校:一橋大学
問題文

「[A]は1860年代に内陸諸省に対する支配を失ったあとは戦闘を沿岸地域に拡大してさらなる高揚を示した。杭州・寧波・蘇州・上海が占領された。…[A]との闘いの最後の数年,文官出身の指揮官たちは西洋製の火器や汽船に感銘を深くした。そのため[A]の鎮圧のあと総督となった曾国藩・李鴻章・左宗棠の下で機器局や船政局(造船所)が南部のいくつかの都市で作られた。機器は海外から購入し,技師も外国から雇った。対外関係が悪化した1870年代にもこの傾向が続いた。造船会社が組織され,10代の留学生の一団が西学を学ぶためにアメリカに到着した。華北で炭鉱が開かれ,電信が主要都市を結んだ。こうした一連の改革の動きは[B]と呼ばれた。…その後,中国の立て続けの外交上の失敗は[B]をまずいものに印象づけ,そこに費やされた貴重な時間を無駄にしたかのように思わせた。しかし,中国近代史において,この運動は中国が経験することになる長期にわたる「失敗」の最初のものにすぎなかった。この一連の出来事に積極的な観点が与えられるのは最近になってからのことである。歴史の奥深さをもってすれば,これらは一見失敗であるかのようにみえるが,実は巨大な革命に向かう必要な一歩だったとみることができる。「(黄仁宇著,山本英史訳『中国 マクロヒストリー』に基づき,問題作成のため,文章の省略・改変を行った。)
問1.空欄[A]に当てはまる語句を記し,次に,その鎮圧に曾国藩・李鴻章・左宗棠がどのような役割を果たしたのか,具体的に述べなさい。(問題番号の記入を含め,100字以内)
問2.空欄[B]に当てはまる語句を記し,次に,こうした一連の改革を推進した人たちのとった基本的な立場・主張がどのようなものであったか,述べなさい。
(問題番号の記入を含め,100字以内)
問3.「対外関係が悪化した外交の失敗」とあるが,1870-80年代における清朝の対外関係を,対ロシア,対フランスの場合について,具体的に述べなさい。(問題番号の記入を含め,200字以内)


解答例

1太平天国。曾国藩は,清朝正規軍の八旗や緑営が無力だったため,郷紳として影響力を持つ郷里の人々を中核に,湘勇と称する義勇軍の郷勇を組織した。同様に李鴻章は淮勇を,左宗は楚勇を組織し,鎮圧に活躍した。

2洋務運動。西洋の軍事技術とその背景にある近代工場制度の優秀性を認め,その導入を図ったが,儒学を基盤とする伝統的な中国の価値体系とそれに基づく既存の王朝支配体制は肯定し,その存続を図った。

3ロシアに対しては,清朝への中央アジアのイスラーム教徒の反乱に乗じてロシアがイリ地方を占領したので,反乱を鎮圧した清朝はロシアに占領地の返還を要求し,イリ条約でその大部分を奪回したが,一部はロシアの領有を承認した。フランスに対しては,フランスがヴェトナムの阮朝にユエ条約を強制して保護国とすると,これに反対して劉永福の黒旗軍を支援して清仏戦争を戦ったが敗北し,天津条約で阮朝の宗主権を放棄した。