フランスでは大革命以来「国民」の観念を言語や人種といった客観的・血統主義的要素に求めず,フランスという「国家が掲げる基本原理を共有しようという意志」に,つまり意志的・選択的要素に求める考え方が基本であった。現在でもフランス第五共和政憲法第二条第一項は,

フランスは不可分の非宗教的,民主的かつ社会的な共和国である。フランスは,出身,人種また
は宗教による区別なしに,すべての市民の法のもとの平等を保障する。フランスは全ての信条を
尊重する

と述べる。
 しかし,普仏戦争に敗北したことによって,対ドイツ報復ナショナリズがフランスに生じ,これはフランスのナショナリズムに民族主義的な要素を混入させ,排外主義やドレフュス事件に見られる反ユダヤ主義を生み出してしまった。また,フランス国民資格の原理に見られる啓蒙主義的普遍主義は,「文明化の使命」という植民地主義正当化の論理として20世紀半ばまで生き延びることになった。

 ドイツでは「ドイツ語を話すドイツ人」すなわち同一言語・同一人種という民族主義的国籍原理がとられてきた。
 プロイセンによる統一は,「自由・平等・友愛」といった普遍的なシンボルを掲げておこなわれたのではなく,逆に自由主義や民主主義の波及を封殺する王朝連合のかたちで実現した。プロイセンはその群をぬいた経済力と軍事力を背景に,「宿敵フランス打倒」を旗印にしたナショナリズムの戦い(普仏戦争)を組織したが,対立する諸邦国を結びつける文化的な絆は「父祖以来のドイツ語を話すドイツ人」意識に他ならなかった。各地域の政治的・文化的分立状況は認めたうえで,経済的利害の共有と人種・言語ナショナリズムによって,どうにか大義名分を調達することができた。つまりドイツ・モデルは,歴史的には分邦主義の克服という課題のために,より原初的・客観主義的なかたちをとらざるをえなかったのである。
 この言語や人種を指標とした国民形成が,しばしば排外主義的国民意識をもたらすことは否定できない。かつてのユダヤ人虐殺や今日のネオ・ナチによる移民排斥を指摘するまでもないだろう。