イェルサレム
ペリシテ人と抗争したヘブライ人(自称イスラエル人)が、2代の王ダヴィデの時首都としてヘブライ王国を確立した都市。3代のソロモン王の時ヤーヴェ神殿が建設されたため、ユダヤ教の聖地となる。ソロモン王の死後ヘブライ王国が南北に分裂すると、南のユダ王国の首都となった。しかし、前586年新バビロニアネブカドネザル2世に占領され、神殿も破壊された。新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシアキュロス2世によってバビロン捕囚から解放され、帰国したユダヤ人は、神殿を再建しユダヤ教団を確立した。アケメネス朝がアレクサンドロス大王によって滅ぼされると、プトレマイオス朝、ついでセレウコス朝の支配を受けたが、マカバイオスが指導したマカベア戦争(前156〜前142)によって独立し、ハスモン朝の宗教国家が成立した。しかし、ポンペイウスの遠征によって前63年にローマの支配下に入った。ローマ支配に対しユダヤ人はネロ帝末期に第一次ユダヤ戦争(66〜70)を起こしたが敗北してヤーヴェ神殿も破壊され、第二次ユダヤ戦争(133〜135)もハドリアヌス帝によって鎮圧された。戦争後、ハドリアヌス帝はユダヤ人のイェルサレム入市を禁じたため、ユダヤ人のディアスポラ(離散)が決定的となった。
一方アウグストゥス帝期にパレスチナ北方のガリラヤに生誕したイエスが、イェルサレムにおいてローマ総督ピラトゥによって処刑されると(後30年、ティベリウス帝期)、イェルサレムはキリスト教にとっても聖地となり、帝権の神聖化のためキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝は、イエスが処刑されたゴルゴダの丘とイエスの墓を保持するため、聖墳墓教会をこの地に建設した。教会制度の整備にともないイェルサレムはキリスト教五本山の一つとされたが、7世紀にアラブ人イスラム教徒が進出するとその支配下に入った。
イスラム教徒にとってイェルサレムは、死に臨んだムハンマドの魂がメディナからイェルサレムに旅して、イェルサレムの地でモーセイエスに導かれ昇天したという伝説が残る地であり、ウマイヤ朝によって岩のドームが建設されてメッカ、メディナに次ぐ聖地となった。
1096年に始まる第一回十字軍は、イェルサレムを占領してイェルサレム王国を建設した。しかしファーティマ朝にかわってアイユーブ朝を建設したサラディン(サラーフ・アッディーン)によって1187年に奪回された。その後イェルサレムはマムルーク朝の支配を経て1517年にオスマン帝国の領域となったが、第一次世界大戦に際してイギリスの二重外交の結果、アラブ人にはフサイン・マクマホン協定で、ユダヤ人にはバルフォア宣言で領有が約束され、現在に続くパレスチナ問題の起源となった。第一次世界大戦後は、イギリスが委任統治領としたが、シオニズム運動を背景に移住したユダヤ人と現地のアラブ人(パレスチナ人)の対立が激化し、第二次世界大戦後国際連合のパレスチナ分割決議案に基づいて1948年にイスラエルの建国が宣言された。第一次中東戦争では新市街である西イェルサレムがイスラエル領に、東イェルサレムはヨルダンの管理下に入ったが、1967年の第3次中東戦争で東イェルサレムを含むヨルダン河西岸地域はイスラエルの占領下に置かれた。その後1980年にイスラエルは東西イェルサレムを合わせてイスラエルの首都とすると宣言したが、国際連合はこの宣言を無効とし、各国の大使館は現在テルアビブに置かれている。一方パレスチナ人も東イェルサレムを首都とするパレスチナ国家の樹立を主張しているため、イェルサレム問題はパレスチナ問題の中でも最も解決困難な問題の一つとなっている。

参照地図
ハイパー世界史ノート