出題年:2008年
出題校:東京大学
問題文

 1871年から73年にかけて,岩倉具視を特命全権大使とする日本政府の使節団は,合衆国とヨーロッパ諸国を歴訪し,アジアの海港都市に寄航しながら帰国した。その記録『米欧回覧実記』のうち,イギリスにあてられた巻は,「この連邦王国の……形勢,位置,広狭,および人口はほとんどわが邦と相比較す。ゆえにこの国の人は,日本を東洋の英国と言う。しかれども営業力をもって論ずれば,隔たりもはなはだし」と述べている。その帰路,アジア各地の人々の状況をみた著者は,「ここに感慨すること少なからず」と記している。(引用は久米邦武『米欧回覧実記』による。現代的表記に改めたところもある。
 世界の諸地域はこのころ重要な転機にあった。世界史が大きなうねりをみせた1850年ころから70年代までの間に,日本をふくむ諸地域がどのようにパクス・ブリタニカに組み込まれ,また対抗したのかについて,解答欄(イ)に18行以内で論述しなさい。その際に,以下の9つの語句を必ず一度は用い,その語句に下線を付しなさい。

インド大反乱  クリミア戦争  江華島事件  総理衙門
第1回万国博覧会  日米修好通商条約  ビスマルク  ミドハト憲法  綿花プランテーション

解答例

イギリスは1851年に第1回万国博覧会を開催するなど世界の工場としての工業力を誇示し,自由貿易を主張した。クリミア戦争ではフランスと結んでロシアの南下を阻止し,ヨーロッパ政治の主導権を握った。これにドイツ・イタリアは国家統合を進めて対抗し,ビスマルクは保護関税政策で工業化を進めた。ロシアも農奴解放令を軸とした近代化を開始した。合衆国南部は綿花プランテーション地域としてイギリスに従属し,自由貿易を主張したが,商工業中心の北部が南北戦争で勝利し,保護関税政策をとって工業化を進めた。オスマン帝国はクリミア戦争後,外債導入を機に英仏への従属が深まり,ミドハト憲法を制定して立憲君主制の導入をはかったが,露土戦争で挫折した。従属経済化が進行したインドはインド大反乱の鎮圧後,直接統治体制が強化されてインド帝国が成立した。中国は,英仏に対するアロー戦争の敗北で開港場が増加し,また総理衙門の設置で朝貢体制から主権国家体制への移行が始まった。一方で,ヨーロッパの軍事技術の導入をはかる洋務運動が行われた。日本は日米修好通商条約で開国し,不平等条約の下で国際交易に組み込まれたが,明治維新によって立憲君主制に向かう一方,朝鮮に対して江華島事件を機に自由貿易を強制する日朝修好条規を結んだ。