第2話 怒りと悲しみの『第9』(1)
 あけましておめでとうございます。2回目にしていきなりこの挨拶・・・・・・。もともとこのコーナーは「工房李香」のクリスマス企画で始めた(ウソ)ので、当然のなりゆきではある。挨拶も挨拶だが、N響の定期からお題を頂くという原則を2回目にしていきなりやぶり、今回は『第9』の話を。

 昨年も12月は『第9』ラッシュだった。N響を始め、ほとんどすべてのプロオケが日本中で何度も何度も歓喜の調べをかきならした。いったい今年は何回やって何人が聴いたのだろう。最近はこの「年末の『第9』」という日本独自の習慣の良し悪しをいう議論は流行らないようだ。まあ、日本だけの特殊性でもいいじゃあないか、という雰囲気が見える。そういう風に世論が落ち着くこと自体は、ある意味で文化的な成熟であり、好ましいことだろう。筆者の個人的な意見を付け加えさせて頂けば、トータルでは悪いことではないと思っている。

 『第9』をきっかけにクラシック音楽に目を開かせられるファンがそうそういるとは思わない。そういうことではなく、むしろ、年に一回だけ、『第9』だけは楽しみにしていて、普段は行かない演奏会に足を運ぶ、という人がこんなに大勢いるということ自体が大変素晴らしいことだと思う。一つの文化が社会に根を張る、というのはそういうことであり、熱心なファンやマニアだけで成立している文化は根が弱い。これでさらに、『第9』以外に年に1〜2回演奏会へ足を運ぶという一般の方がもう少し増えれば、供給する側にも影響して日本の音楽文化はもっと発展するだろうが。

 正直に言えば、筆者ももう少し若いときには、こういう捉え方はできなかった。日本のオケも聴衆も世界に比べればレベルが低すぎて、そんなものが繁栄したところで文化的な価値は無きに等しい、と頑なに考えていた。しかし、いろいろな経験をするうちに、社会の中でのあらゆる営みはすべて文化であり、文化とは社会そのものである(自分勝手な定義!山内先生ごめんなさい)。だから、文化を形成する個人もその社会の一員として、横のつながりなしには存在し得ないということに気がついた。世界の超一流のオケの来日公演だけを聞き続ける、あるいはCDで歴史的演奏の聴き比べを追求する、そういう楽しみ方を専門にしている人は大勢いる。それも大いに結構。しかし、多くの人たちがそうした楽しみ方に固執して、他の様々な営みを認めないようでは音楽は文化として存在できない。筆者は日本におけるクラシック音楽の将来を悲観的に見ている。しかし、文化としてバランスを保ちながら発展させる目を、日本人の一人でも多くがもつことができれば、事態は良い方向へ向かうだろうとも思っている。

 一方、演奏する方も、聴き手に専門的に理解してもらえなくても喜んでもらえれば、とりあえずは幸せ、なのだ。「聴衆のレベル」という議論もあるし、筆者もかねてから考えるところがあるのだが、少なくとも演奏家は言ってはいけない、と思う。中途半端な書き方はしたくないのだが、あえて一言でいえば、「聴衆の質は演奏家が作り、演奏家の質は聴衆が作る」ものだからだ。

 話を戻そう。「年末の第9」のもう一つの良いところ、それは、アマチュア歌手たちが自分たちで歌える、ということ。これは凄い。こんなことは他のシチュエーションでは考えられない。古くは「歌声喫茶」のブーム、もう少し新しくなって「カラオケ」を創造したことからも分かるように、日本人は歌うことが大好きなのだ。意欲と最低限の音感さえあればだれでも舞台にのってオーケストラと『第9』が歌える(歌わせてもらえる)!これのどこが悪いことなのだろう。年末の『第9』騒動に眉をひそめられている方々には、騙されたと思ってどこかの第9合唱団に参加してみられることをお勧めする。

 まあ、あれやこれやで「年末の『第9』」、ベートーヴェンご本人もきっと喜んでいるはずである。

 良いことは多いが、マイナス面も相当大きいものがある。

 まず、オケパーソンは『第9』に食傷してしまった。みんな「仕方がないから」やっている。何故「仕方がない」のか。もちろん財政問題である。もともと「年末の『第9』」は新響(N響の前身)の餅代稼ぎが始まりと言われているが、その状況は○十年たった今も変わっていない。オケの財政状況を詳しく知っているわけではないが、オケパーソンの薄給と寄付金集めの大変さは何となく知っている。それから想像しても相当厳しいはずだ。やるたびに満員になる『第9』があっての厳しさだから、『第9』がなくなったらどうなるのか・・・・・・N響でさえ4回もやるんですからね(うち1回はチャリティーだが)。

 本当は、なんだかんだ言っても演奏家はみんな『第9』が大好きだ。それこそ「これが弾けたら死んでもいい」ぐらいの曲なのだ。できることなら棚の奥にしまった楽譜を時々出してきては「これを音にしたらどんなに凄いだろう」「音符を目で追いかけるだけで涙がでてきちゃうよ」と思いたいのである。先ほど書いたことと矛盾するようだが、いくら餅代かせぎとはいえ、アマチュアのお供で毎年5回も6回も演奏させられるオケパーソンは気の毒だ。参拝客集めのために世界遺産級のご本尊を年がら年中公開している寺のようなものだ。無念さは想像してあまりある。

 一方、我々、音楽を難しい顔をして聴きたい人間にとっては、年末以外に『第9』を聴く機会がほとんどなくなってしまった。これがどういうことかというと、もの凄い企画が出ないのである。もの凄い企画といっても「100万人の『第9』」とか、「月にいる合唱団と地球のオケを衛星通信で結んでシンクロする」とかではない。例え話をすれば、『第9』という曲は、日本以外では、オケの何十周年記念演奏会とかあるいは都市建築何百年記念とか、そういうような大一番に、賛助会員や企業、お役所などからお金をかき集めて、通常の何年分ものギャラが必要な超一流の指揮者やソリストを揃えて上げる曲なのだ。そういう気合いの入った企画・気合いの入った演奏に日本ではほとんどお目にかかることができないのである。

 ある種の冷静さで事態を眺め直せば、ファンもオケパーソンも『第9』のおかげで財政が少しでも改善して、演奏活動が続けられるのであればいいじゃあないか、という見方もあるだろう。筆者も完全に否定はしない。が、そういう見方はやはり文化受容の退廃と言わざるを得ない。もちろん、クラシックだけが文化ではないし、また今の日本のオケの乱立状況がそのまま肯定され得るものとは考えない(日本のオケにはやらなければいけない改革が山ほどある)。しかし、音楽に限らず、文化の発展とそのための資金の問題は、ニワトリとタマゴの関係なのだ。文化政策に関して定見を持ち得ないまま、隘路に入るとすぐに自由主義経済の原則に解決を求めるような態度は貧しい・・・・・・止めよう。猛反発が聞こえる。

 最近は、評論家や研究者の中には「『第9』至上主義」(さらにいえば「ベートーヴェンの神格化」)に対する反発も強くあるが、『第9』の意義というのは、音楽としての「できの良さ」とはちょっと次元の違う話だ。ベートーヴェンの交響曲では『第7』と『第9』のどちらが優れているか、というような議論を無意味にしてしまう、『第9』にはそういう力があるのである。だからこそ、飽きっぽい日本人が「年末の『第9』」は何十年も続けられたのだ。ベートーヴェンはやはり文化史上、特別な存在か・・・・・・と、ここまでを枕に(長い!)して、今回はベートーヴェンの話題をさらに進めて書く予定だった・・・・・・だった。少なくとも「あの」記事を見るまでは。(つづく)