出題年:2004年
出題校:一橋大学
問題文
A広大なイスラーム世界は,10世紀におけるアッバース朝の衰退以降,イスラーム諸王朝が分立する時代に入る。しかし,ヨーロッパ史で大航海時代といわれる16世紀には,三つの強大な王朝が鼎立する時代を迎えた。この三つの王朝の崩壊過程から,イスラーム世界の近代は生まれる。その一つは,イスタンブルを首都とするオスマン朝であるが,あとの二つの王朝は何か。その名前を述べ,それぞれの王朝の成立経緯(いつ,誰によって建設され,どの地域を,どのような理念で統治したのか,など)を簡潔に述べなさい。(200字以内)
B次の文章を読んで,下記の設問に答えなさい。

 中国はプロレタリア文化大革命の終結後,1978年末からは「改革と開放」政策へと路線の大転換をうちだした。国内では,プロレタリア文化大革命時代には批判されて発言を封じられていた知識人たちも多くが復権し,学校教育の混乱も修復され,1980年代をとおして,民主化への動きが作られた。ゴルバチョフが訪中して中ソ関係正常化がはかられることになった年には,民主化要求が高まったが,天安門事件へと展開し,政府の武力鎮圧による流血の惨事に終わった。
 その年の民主化要求運動においては,北京の学生が中心となって広がっていったこともあり,同様にして広まった70年前の[     ]が強く意識されることになった。1980年代の思想界で影響力をもった知識人のひとり,李沢厚は,1986年に当時の中国の課題を思索するなかで,歴史をふりかえり,[     ]をめぐって以下のような認識を示していた。

啓蒙的な新文化運動は,始まると間もなく救国の反帝政治運動に遭遇し,両者はすぐに一つの流れに合流していったのであった。(中略)
[    ]時期の啓蒙と救国が矛盾することなく進み,互いに促進しあった局面は,長くは続かなかった。救国という歴史的局面と苛烈な現実闘争のなかで,啓蒙という思想的主題は,またもや,救国の政治的主題に圧倒されてしまったのである。(砂山幸雄訳,李沢厚「啓蒙と救国の二重変奏」1989年より)
 このような「啓蒙と救国」の関係づけは,当初から議論をまきおこし,上述の民主化要求運動では[    ]期に唱えられたスローガン「民主と科学」が叫ばれることにもなったが,天安門事件がおこると,李沢厚らは政府によってふたたび発言を制限された。

問1 空欄[    ]の中に適切な語句を入れて,文を完成させなさい。空欄には,すべて同じ語句が入ります。答は解答欄の1行分を使用しなさい。
問2 李沢厚の文章において「啓蒙と救国」として言及されている内容について,それぞれの運動の時期と機能,中心人物・刊行物などにもふれ,具体的に述べなさい。(175字以内)



解答例

サファヴィー朝とムガル帝国。サファヴィー朝は,16世紀初頭,ティムール帝国滅亡後の混乱にあったイラン地方で,シーア派神秘主義教団の教主であったイスマーイール1世によって建国されたシーア派王朝である。スンニ派のオスマン帝国に対抗し,イランの伝統的な君主の称号であるシャーを用いた。ムガル帝国は,ティムール帝国の末裔であるバーブルがインドに建国し,ティムール帝国とモンゴル帝国の復興を理念とした。

五・四運動。
啓蒙の新文化運動は,1915年の対華二十一ヵ条受諾を背景に,陳独秀が上海で創刊した「新青年」を中心とし,西欧思想を紹介して中国の封建制と儒教文化を批判し,その手段として白話運動を展開した。救国の反帝政治運動は,五・四運動を機に孫文が結成した中国国民党と,陳独秀らがコミンテルンの指導下に結成した中国共産党が中心であり,両者は1924年に合作を行った。