中村富由彦 
経済学科1年

 ここで僕の平凡な生いたちを書いてもつまらないので、僕のミステリーに対する考え方に少し触れてみたいと思います。一口に言って、僕は本格物が嫌いです。謎解き中心の無味乾燥な物語には少しも魅力を感じません。もちろん、初めて接したミステリーは本格物でしたし、当時は夢中で読みました。しかし高校に入る頃になって、僕はミステリーに求めるものが変わったのです。それは複雑で巧妙なトリックでも、あっと驚く意外性でもなく、小説としての、文学として“感”です。だったらミステリーなど読まずに、普通の小説で十分じゃないかと言われそうですが、あながちそうとも言い切れないのです。ミステリーだけが持ち得る文学性というものが、僕にはあるような気がします、つまり犯罪を扱うことによってしか書けない、人間の弱さ醜さです。僕たち人間は、内心案外と犯罪に憧れているものです。あいつが居なかったらどんなにいいだろう。何とかあいつを殺せないものか。そういった考えを持つのは、人間として当然の心理です。ここに犯人が居て殺人を犯します。しかし彼はやがて捕らわれてしまいます。仕方がなかったんだ。こうするしかなかったんだ。犯人の最後の呟きは切実に僕たちの胸に響いてきます。犯罪の心理というものが身近であればあるほど、そうして私たちは自分の弱さ醜さに気付くのです。それが、ミステリーでしか味わえない“悲しい感動”なのだと思います。トリックは、そのラストシーンを盛り上げるための道具に過ぎません。というのが、僕の好きなミステリーの一パターンです。僕は勝手にそれを“叙情派推理”と呼んでいます。今、ミステリーは種切れの時代です。トリックが底をついて意外性を失ったミステリーに、必要なのは文学性です。これからもし、叙情派推理が僕の目の前に現われてくれないのなら、僕は自分が書くしかないとさえ思っています。
 
 わし、せいせいした。言いたいことは言っちゃったから素顔の僕に戻ります。最初に書いた自己紹介は気に入らんのでボツにしたんですが、それを読んだ人は僕が二重人格者だってことに気付いたでしょう。僕は陰険だから、かげじゃなんでもいうんだぞ。せんぱいのわるぐちだってなんだっていうんだぞ。あいだやさとうやなかわたせのわるぐちだってとくいだぞ。そうぶせんでかよってくるんだ。ちばじんだぞ。しんけえせえだぞ。ぼくはよってなんかないぞ。おさけはつよいのれすからね、ひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ。

 最後に、皆さんに是非読んでいただきたい作品をいくつか挙げておきます。松本清張「砂の器」「霧の旗」結城昌治「夜の終わる時」「幻の殺意」笹沢左保「招かざる客」「人喰い」夏樹静子「天使が消えてゆく」「蒸発」土屋隆夫「危険な童話」「陰の告発」そして拙作「殺人奏鳴曲」。

P.S.僕は人前では滅多に素顔を見せません。なにより   を大切にするからです。