アルクィン(735-804)

中世キリス卜教神学の祖とされるイングランドの学者。カール大帝に招かれ、アーヘンの宮廷学校を指導。カロリングルネサンスの中心人物となる。



アンセルムス(1033-1109)

カンタベリ大司教として教皇グレゴリウス7世に忠誠を誓い、地上権力との闘争に関しては教権の優位を主張し、哲学すらも神学に幸仕させてスコラ哲学の父と言われる。その説はあくまで信仰心を重んじ、理性に対する信仰の優先を説くもので、“信ずるために知ることを求めず、知らんがために信ずる”と主張。神や善などの普遍的な真実の存在を主張する実在論を唱えた。



アベラール(1079-1142)

盲目的信仰をしりぞけ、理性が信仰に優先するとし、神や善などの普遍的とされる概念も、実は人間が名づけて初めて、神や善として理解されるのであるとする唯名論に理解を示して普遍論争の一方の旗頭となる。また尼僧エロイーズとの恋愛事件でも有名で、そのいきさつを書いた「わが不幸の物語」はヨーロッパ中でもてはやされ彼の人気を不動のものとするとともに、彼の勤めるパリ大学には彼を慕ってヨーロッパ中から優秀な学生が集まり、今に至るヨーロッパの名門大学の地位 を確立した。もっとも、エロイーズとの恋愛事件では、スキャンダルを憎むエロイーズの親族がやとった暴漢に襲われ、不能とされてしまっている。清らかである筈の聖職者もなかなか大変である。



トマス=アクィナス(1225-74)

ドミニコ派の学僧にしてパリ大学教授。「神学大全」を著してスコラ哲学を大成したことで余りにも有名。もっともその前提となったのは、当時イスラム世界のアラビア語文献から翻訳されたアリストテレス理論であり、スコラ哲学自体がイスラムの学問の輸入翻訳から始まっていることは注目されてよい。生存中から「天使博士」と賞賛され、死後聖人とされた。ちなみにショーン=コネリー主演で映画化されたウンベル卜=エーコのベストセラー小説『薔薇の名前』で、重要な登場人物である修道院長は、トマスの死にあたって棺を担ぐ係となり、大男の彼を入れた巨大な棺を落とすことなく無事、僧院の狭い通路や階段を運んだ功績によってそのドミニコ派修道院長の座を手に入れた…という設定になっている。なお、ドミニコ派がスコラ哲学の研究に力を入れて多くの学僧を輩出したのは、初期のドミニコ派が南フランスにおけるワルド派やアルビジョワ派の異端運動に対抗する役割を担い、異端審問を積極的に行う修道会であったため、異端との論争に備える必要があったからである。



ロジャー=ベーコン(1214-94)

13世紀イギリスのスコラ学者。「驚嘆すべき博士」と称された。経験や実験を重視してイギリス経験論の先駆けとなり、経験科学という言葉は彼から始まった。



ドゥンス=スコトゥス(1266-1308)

トマス=アクィナス以後のスコラ哲学の発展をもたらしたイギリス人。パリ大学で教えていた時、教皇ボニファティウス8世と仏王フィリップ4世の争いに際してボニファティウス8世を支持し、パリから追放されている。彼の学説はそれまで絶対的権威とされていたアリストテレスとトマス=アクィナスを批判するものであり、実証的な学問への道を開いた。



ウィリアム=オッカム(1280年代-1349)

ドゥンス=スコトゥスに学び、のちに唯名論を主張。理性や経験を重視し、科学的な思考と近代哲学への道を開く。スコラ学者として出発しながらも、結局彼の説はスコラ哲学自体を破壊していくことになった。また“教皇のバビロン捕囚”という状況下にあって反教皇権主義の立場から異端とされたが、ドイツ皇帝保護のもと活動を続けた。先のエーコの『薔薇の名前』の主人公は、オッカムのウィリアムの友人にして盟友という設定になっている。



ダンテ(1265-1321)

フィレンツェに生まれ、35歳で市の行政官となる。神聖ローマ帝国ホーエンシュタウヘン朝の没落と大空位時代によって、イタリアを分裂させたたまま影響力を維持しようとする教皇とフランス王の勢力が強まっていた時代状況において、皇帝派と教皇派の対立に端を発する複雑な政争に巻き込まれ、教皇ボニファティウス8世と結んだ勢力によって翌年には政争に敗れてフィレンツェを永久追放。生涯二度と、生まれ故郷に還ることはなかった。42歳の時から当時「俗語」として軽視されていたトスカナ方言で不朽の名作『神曲』を書き始める。ウィクリフの英訳聖書によって英語が、フスのチェコ語訳聖書でチェコ語が、ルターのドイツ語訳聖書によってドイツ語が確立されたように、彼の『神曲』によってこそ、国語としてのイタリア語が成立する。ちなみに『神曲』は案内者にローマ時代最大の詩人ヴェルギリウスを設定していることや、永遠の美少女ベアトリーチェの存在などで有名であるが、自らの失脚の原因となったボニファティウス8世に対する痛烈な批判がちりばめられていたり、同時代の知人の地獄に落ちた様が描かれていたりする。また、地獄の建物がモスクの形をしていたり、ムハンマドが地獄にいる設定になっていたりとイスラーム教が敵視している。時代環境を考えるとそれも当然で、アッコンが陥落し十字軍運動が最終的に失敗に終わったのは、ダンテが20代後半の時であった。


ペトラルカ(1304-1374)

最初の人文主義者と称されるフィレンツェ叙情詩人。ダンテが美少女ベアトリーチェへの思慕を『神曲』のモチーフにしたように、彼は教会のミサで知り合った貴婦人ラウラへの想いを『カンツォニオーレ』に代表されるイタリア語の叙情詩に託し、一躍ダンテ以降の最高の詩人としての名声を得る。しかしペトラルカの本領はむしろ古典ラテン語研究にこそあり、当代最高の知識人として、古典文化復活という意味でのルネサンスを準備することになる。「最初の人文主義者」「人文主義者の父」などの呼称は、ここに由来する。またイタリア統一を願う愛国者であり、神聖ローマ皇帝カール4世(金印勅書の発布者)に統一イタリアの復興を働きかけたがかなわなかった。絶えず諸国を旅行して、宮廷を渡り歩く生涯を送ってルネサンス文化人の生活ス
タイルを確立。70歳の誕生日のその日に死亡。遺言によって遺産の一部が親友ボッカチオに贈られた。



ボッカチオ(1313-1375)

ダンテ、ペトラルカと同じくフィレンツェに生まれた人文主義者。黒死病<ペス卜>の流行を背景に著された『デカメロン<十日物語>』はイタリア語散文を確立するとともに、近代風刺小説の祖型とされ、高く評価されている。構成は、ペス卜を避けて集まった10人の人物が10日間、それぞれ一日一つ物語りをするというもので、全部で100話からなる。聖職者の好色なさま等を笑いのめす批判精神を交えて、生命力に充実した快括な登場人物が描かれ、ペス卜にうちのめされた人々を励まし、立ち直らせようとする作者の願いが、作品の背後からうかがわれる…と。ところでこの小説は“好色文学”の祖としても知られており、おませな中学生だった僕は、「世界文学の名作にかこつけて、Hな本をどうどうと読める」という期待に胸高鳴らせて、『デカメロン』を買ったことがある。実際にレジで金払う時にはけっして比喩ではなく心臓がドキドキして耳の中に心音がこだましてた。もちろん、あさはかな中学生の期待はぺージをめくっていくにつれ裏切られ、「何が好色文学だ」という怒りにかわっていくわけですが、いや思えば私も若かった。さて、『デカメロン』完成後、ペトラルカと知り合い親友となったボッカチオは、その影響もあって、ギリシア古典の研究などに手を染め、人文主義者として活躍。後には尊敬するダンテの『神曲』の注釈なども行った。ペトラルカの死の翌年、その後を追うように死亡。



ジオット(1266-1337)

イタリアルネサンス写実主義絵画の時代の幕開けを告げる画家。ダンテもその画業を賞賛した。フィレンツェの人で、羊飼いの生まれであるという。機知に富んだ人としても知られ、彼のものとされる小話に次のようなものがある。

ジオットが仲間と連れ立ってお寺まいりをした時、あるー人が言った。「ね、どうし
てヨセフはいつでもあんなに憂鬱そうな顔をしてるのだろう(ヨセフはキリストの母
なるマリアの婚約者)」ジオットがすぐさま応じる。「あたりまえさ。自分の花嫁の
お腹が大きくなるのを見ながら、その父親がわからないのだから」

とはいえ、彼は乞食修道院運動およびフランチェスコ派の創始者で「第二のキリス卜」と賞賛されたフランチェスコを題材にした『聖フランチェスコの生涯』など、深い宗教体験なしには描けないような名画を残しているのであるが。



ブルネレスキ(1377-1446)

15世紀を代表する建築家でフィレンツェサンタマリア大聖堂の大ドーム建築に成功。中世の、無数の柱の集合により垂直に伸びる尖塔を特徽とするゴシック様式に対して、柱を使わない大ドーム建築に成功したことはルネサンス様式の到来を告げる建築史上の革命である。もっともこの時代の技術でどのようにしてドームを建築したのかは、建築史上の謎だったりする。同時に、そこで用いられた、“遠近法”と自ら名づけた空間把握の理論は、彫刻で盟友ドナテルロに、絵画ではマザッチョらによって展開され、ルネサンス美術全体に、大きな影響を与えていくことになる。この後彼はフイレンツェの政権を掌握したコジモ=デ=メディチの庇護下に活動を続け、メディチ家の菩提寺となるサン=ロレンツォ聖堂の建築も行った。



ドナテルロ(1386-1466)
イタリアルネサンス期の彫刻ミケランジェロと二分し、前期を代表する彫刻家。ブルネレスキと共にローマ時代の遺跡を調査し、古代彫刻を研究。科学的な観察に基づく写実主義的な技法を身に付け、人体の美と力を写実的に表す、古代彫刻の伝統を復活させた。コジモ=デ=メディチとは終生の親友となり、その庇護のもとに、『ガッタメラータ将軍騎馬像』などの傑作を残した。



ボッティチェリ(1444/45-1510)

この名はあだなで翻訳すると「小樽」となる。彼の兄がまず最初に「小樽」とあだなされ、ついでに弟もこのあだなで呼ばれるようになったそうで、それはないだろうと本人は思ったかどうか。いやとにかく代表作「ヴィーナスの誕生」であまりにも有名。メディチ家の庇護を受け、異教的な雰囲気に触れて、聖書ではなく、ギリシア神話に基づいて、しかも当時タブー視された女性裸体を描き出し、ルネサンス絵画に多大な影響を与えた。ボッティチェリは現世の快楽や女性の肉体の美しさに惹かれるー方で、肉体を悪魔のすみかと教えたカトリックの敬虔な信者であり、その矛盾が痛々しく恥らいに満ち、なおかつ自然の美しさに恍惚とするヴィーナスに表われて、この絵画を不朽の名作にしたのだと言われている。しかし心の比重は次第に信仰に傾き、特にフィレンツェに異教と腐敗を激しく糾弾するサヴォナローラが修道院長として出現すると、その教えに帰依するようになっていく。そして仏王シャルル8世の侵入をきっかけに、メディチ家が追放され、サヴォナローラが独裁権を握り、狂信的な改革が行われ、贅沢品や美術品が広場に積み上げられて燃やされた運命の時、自ら自作の絵を供出してこれを燃やし、画家としては自滅の道をたどっていくのである。こうして彼はダンテの作品の挿し絵に熱中するー方、宗教的神秘的作品ばかりを描いた。教皇アレクサンデル6世(ポルトガルとスペイン間の勢力圏を分割した教皇子午線で有名)と対立したサヴォナローラが異端として焚刑された後も、あくまで忠実な信徒として教えを守り、自らもの狂おしい宗教家と化し、狂信的な幻想に満ちあふれた作品を残した後、晩年の10年にはついにほとんど作品製作もやめて、その生涯を終えた。



マキャベリ(1469-1527)

フィレンツェの人で、25歳の時、フィレンツェに侵入してきたシャルル8世の軍を目の当りにし、イタリア統ーの必要を痛感。フィレンツェの書記官、外交官として活躍したが、後に政争に敗れ、追放された。その間に書かれたのが名著『君主論』である。教皇アレクサンデル6世の子、チェザーレ=ボルジアを理想的君主のモデルとして念頭においたといわれるこの書は「君主たるもの獅子の勇気と狐の狡知を持たねばならない」として道徳と政治を分離し、政治学の嚆矢となった。しかし、プロイセン国王フリードリヒ2世の有名な言葉「君主は国家第一の下僕」が、皇太子時代にフリードリヒ2世が著した「反マキャヴェリ」という論文に出自するように、その主張は権謀術数主義として受け取られ、マキャヴェリズムの名を残した。



ダ=ヴィンチ(1452-1519)

ルネサンス期最大の万能人として知られ、自らの実作は拒否したもののチェザーレ=ボルジアのために新兵器の開発設計すらおこなっている。各宮廷を渡り歩き、フィレンツェではメディチ家にローマでは教皇に、そして最後はフランス王フランソワ1世に仕え、フランスで生涯を終えた。46歳で「最後の晩餐」を、53歳にして「モナリザ」を描く。しかし女性美の象徴とされる「モナリザ」を描きながら、彼自身は生涯妻帯せず、その愛の対象は例え精神的なものであったにせよ同性であったと言われている。ところで、あの有名な我々が知っているルーブル美術館の『モナリザ』は、実は本当に本物かどうかよくわかっていない。これこそ本物の『モナリザ』であると主張する絵は存在がわかっているものだけでも数多く、個人コレクターが秘蔵している
ものを入れれば数百にのぼるのではないかと言われている。しかも、どうも『モナリザ』は、画家自身によって別 々のものが二部描かれていた可能性があって、しかもルーブルの『モナリザ』は、本命ではないほうの作品ではないか、という疑いが近年濃くなり、現在ますます混乱に拍車がかかっているところである。真相やいかに。



ミケランジェロ(1475-1564)

フィレンツェ共和国の中級官吏の子として生まれながら、父の反対を押し切って美術に志す。15歳頃、ロレンツォ=デ=メディチに見いだされ、メディチ家で実子待遇での英才教育を受けて、その才能を大きく開花。89歳で死ぬ までの間、彫刻では『ピエタ』『ダヴィデ』『モーゼ』、絵画ではシスティナ礼拝堂の天井に『天地創造』、正面に『最後の審判』そして建築ではブラマンテが設計を始めたサン=ピエトロ大聖堂の施工を規模を3/4に縮小して受け継ぐなど、美術史上に偉大な足跡を残し、生存中から「神の如き」と称された。その生涯はしかし、苦悩の色に染め上げられている。ミケランジェロは穏健なレオナルド=ダ=ヴィンチとすら諍いを起こしたような気難し家で、自分が傷つくことを恐れて人を傷つけ、住む世界を狭くしては孤独に閉じこもった。その傾向は、青年期に彼の生意気を憎んだ先輩彫刻家に鉄拳制裁を受けて鼻をつぶされ、複雑な容貌コンプレックスを抱いたことで加速されたと言われる。政治的にも、メディチ家とサヴォナローラ、フィレンツェ共和政とメディチ家独裁の間で揺れ動き、様々な人々から裏切り者として非難されて更に孤独と苦悩を深め、その 傷は生涯癒されることはなかった。ところで、『最後の審判』では彼はキリス卜を全裸に描いたが、これが教会や敵対者から非難されて大問題となり、結局門弟のー人が腰布を加えることによって、この大作は破壊されずにすんだというエピソードがある。で、この門弟は後世「ふんどし画家」という有り難くない異名をちょうだいした。いい迷惑である。近年の修復作業の時、腰布を除いて、絵を本来の姿に戻そうという提案が行われ、周辺の人物の何人かに関しては腰布がとりはらわれた。しかしキリストを始めとする主要人物については反対の声が強く、結局腰布はそのままになって、彼が描いていた筈のキリス卜のおちんちんは開帳されなかった。残念。



ラファエロ(1483-1520)

16世紀の初めに多くの聖母子像を描いた、レオナルド=ダ=ヴィンチ、ミケランジェロと並び称されるイタリア=ルネサンスの画家、建築家。19世紀に絵画技術の革新運動が始まるまでは、長く史上最高の画家の評価を得ていた。ギリシアの哲学者を描いた「アテネの学堂」は教科書の挿絵によくある。1514年には、サン=ピエトロ大聖堂の建築を叔父のブラマンテから受け継ぐが、これは1520年に彼が早世したため、後にミケランジェロに受け継がれた。誰からも好かれる善良な性格と、何よりその優美な姿態に名声が加わって、異常に女性にもてたことでも有名。その死も実は、もてすぎて遊びすぎた結果 、体力の限界を越え(いわゆる「やりすぎ」ですな)、ついに高熱を発して寝込んだところを、悪名高い瀉血療法(病気の原因を悪い血によると考え、血を出すことで治療しようというもの)を施されたことによるという話がある(この部分、『人間臨終図鑑』参照)。うらやましいような、うらやましくないような。



ブラマンテ(1444-1514)

イタリアの盛期ルネサンスを代表する建築家で、キリス卜生誕1500年を記念して、教皇ユリウス2世(ラファエロやミケランジェロも保護してローマをルネサンスの中心にしたことで有名)の命により、サン=ピエトロ大聖堂の設計・指揮を行う。一方でミケランジェロと対立し、策謀を用いてミケランジェロをシスティナ礼拝堂の天井画製作という、意図せぬ 仕事においこみ、その恨みをかった。まあミケランジェロが恨むのも無理のない話で、天井画はきゃたつの上で爪先立ちになり、両手を上げ、首をねじまげて、上を見ながら、描かなければならない。これはつらいぞ。自分でためしにポーズをとってみるとすぐわかる。やってみるべし。やってみた上で、その時描かれたのが大傑作『天地創造』であると知れば、また感慨もひとしおであろう。



ファン=アイク兄弟(1366-1426)(1380-1441)

15世紀初めのフランドルの画家兄弟。兄フーベル卜、弟ヤン。写実的なゴシック絵画を特徴とするフランドル画派の基を開き、多くの祭壇画の傑作を残す。また油絵の技法を改良し、後世に大きな影響を与えて、美術史上、イタリアルネッサンスの巨匠たちと並び称される大画家である。 



エラスムス(1465-1536)

ネーデルラン卜のロッテルダムに私生児として生まれる。9歳より早くも修道院に入って学問を治め、パリ大学に神学を学ぶ。ギリシア、ラテン古典の研究をすすめる一方、各地を旅行して人文主義者仲間と交流。特にトマス=モアとの親交は有名である。修道士として教会内部にありながら、1509年『愚神礼賛』を著して教会と僧侶の腐敗を鋭く風刺。16年にはギリシア語原典をもとに、当時普及していたラテン語の新約聖書の誤りをただして、人文主義者の第一人者とみなされ、「ゲルマニアのほまれ、世界の誇り」と絶賛された。彼の著書はおりからの活版印刷術の普及によって広く読まれ、宗教改革を準備したと言われるが、宗教改革の勃発にさいしては、あくまで中立を守り、両陣営から批判される中で没した。しかし、旧教と新教の対立が激しくなり、両陣営とも狂信の度を深めていくなかで、そのあくまで理性的な対応は、現在高く評価され、その著作は現在も読み継がれている。



ブリューゲル(1520-1569)

フランドル働く農民や、子供達を題材に描いた、ベルギーの国民的画家。しかし、彼がリアルに描き出した子供の表情は、我々が想像するような無邪気なものではなく、「大人びて」いたり、虚無観を漂わせていたりすることが多い。そこに着目して近年、18世紀以前は、子供は「小さな大人」であり、子供が現在あるように「子供」として認識されるようになったのは、近代市民主義社会成立以後のことではないかという研究が出されたりしている。



デューラー(1471-1528)

四聖徒』で有名なドイツの宗教画家。明るいイタリアの画風に対して良く言えば重厚な、悪く言えば暗く沈んだ画風が特徴である。ドイツ人でドイツで活躍した美術家で、万人が優れているとみとめる人物は少なく、彼一人が飛び抜けて有名。ドイツにはろくな画家がいないから、ドイツ人はただ一人イタリアなどに対抗できる彼を、むやみにほめ上げて有名にしたのだ、などという話もある。



ホルバイン(1497-1543)

デューラーと並び称されるドイツ=ルネサンスの巨匠。もっとも彼はその活躍の舞台をイギリスに移し、へンリ8世の宮廷画家としてイギリスはロンドンで生涯を終え、ドイツにはほとんど門人を残さなかった。特に肖像画に優れ、『へンリ8世』が有名。またエラスムスやトマス=モアと交流し、エラスムスの肖像画も残している。 


ラブレー(1494-1553)

したいようにせよ(欲するところを行え)」という言葉で有名な、フランスルネサンスの前期を代表する作家・人文主義者。大作『ガルガンチュア物語』の主人公、巨人ガルガンチュアは、作者の意思を体現し、社会的因習を軽々と踏み越えていく。って書くとかっこいいが,うんちやおしっこのスカトロ話や,下ネタの笑話満載。全編これ哄笑が響き渡るという感じの作品です。福音主義の理想に立ちながらも、新旧両派のどちらにも属さない態度を示し、巨人ガルガンチュアとその子パンタグリュエルによって狭量な新旧両派の対立そのものを風刺したラブレーの作品は、カトリックからも、カルヴァン派からも異端とされ、発刊後たちまち発禁処分となり、自身も流浪の亡命生括の果てに死んだ。 



モンテーニュ(1533-92)

後期フランスルネサンスを代表する人文主義者で、ボルドーの高等法院の要職にあったものの、38歳にして社会生活からの引退を宣言し、エッセーを書き始める。途中48歳から4年間ボルドーの市長に選ばれ、ユグノー戦争の混乱の中、よく新旧両派の融和に努力してボルドー市の平和を維持した。その後は再び自分の城に隠棲。城にはらせん状の階段室があってその壁面ぐるりが全て本棚となっており、古今の書物が集められているという、読書家にとってまさに夢のような空間であったと伝えられている。その書物に囲まれ、死ぬまで人生に対する深い洞察に満ちたエッセーを書き続けた。それがまとめられたのが有名な『随想録』である。


セルバンテス(1547-1616)

以下、山田風太郎『人間臨終図鑑』よりの引用。

彼は24歳のとき祖国スペイン艦隊の一水兵として、当時強大を誇った卜ルコ艦隊を撃破した有名なレパン卜の海戦に、マラリアをおして参加し左手に負傷して生涯使用不能となった。彼はみずから称して「レパン卜の片手ン坊」といった。しかしその後トルコの海賊船に襲われて捕虜となり、5年にわたる奴隷生活を送ったり、海軍の糧食係の小役人となったり、大変な貧乏の中で何度か牢獄にはいったりしたが、58歳のときに書いた『ドンキホーテ前編』が当時としては異例の評判を得た。ただし当時のスペインでは、作者の意思とは無関係にどこでも出版できたので彼はちっとも豊かにならなかった。それどころか、別の男が勝手に『ドンキホーテ後編』を書いて出版した。さすがに彼は狼狽して、自分の書いた『ドンキホーテ』の後編を急いで書き出し
た。このことがなければ『ドンキホーテ』は未完のまま終わったかもしれないといわれる。なぜなら、この後編につけた献辞の日付けが1615年10月末日で、その半年後本が出版された1616年の4月13日に彼はマドリードの自宅で死ぬ というきわどい芸当であったからである。シェークスピアが死んだのも同じ年。日本では徳川家康が死んでいる。



チョーサー(1340-1400)

エドワード3世に仕えた14世紀イギリスの、イギリスルネサンスの先駆的作家。ボッカチオの『デカメロン』を模倣して晩年に『カンタベリ物語』を著し、英語の成立に大きな影響を与えた。



トマス=モア(1478-1535)

イギリス=ルネサンスを代表する人文主義者。エラスムスとの親交で有名で、代表作『ユートピア』はエラスムスの『愚神礼賛』に対する答礼として書かれた。ユートピアは理想郷と訳されるが、本来の意味は「どこにもない場所」。ここでユートピアとして描かれたのは、無為徒食の貴族や僧侶がいなくて、一日6時間働けばよく、教育が普及し、民主主義が確立していて、信教が自由な国である。今の日本は、あと少しかなという気がしないでもないけど、我々には我々の新たな困難があるぞ、と。第一部は、当時のイギリス及び西欧各国の状況に対する批判になっていて、「羊が人間を喰う」と、当時行われていた第一次囲いこみ運動に対する批判があることも重要。さて彼は、人文主義の教養ある若き国王へンリ8世に政治改革の期待を寄せ、またヘン
リ8世の彼に対する信頼も篤く、その懇願により、大法官になる。しかし、それが運命を決した。ヘンリ8世の離婚と首長法に反対をつらぬいた彼は、結局ロンドン塔で処刑され、その生涯を閉じるのである。



スペンサー(1525-1599)

イギリスルネサンスを代表する詩人。代表作は『神仙女王』でその文章の美しさから詩人の詩人と称される。なお、『神仙女王』はエリザべス女王を意味しているとされる。



シェークスピア(1564-1616)

あまりにも有名なイギリス=ルネサンスの代表的劇作家。喜劇として『ベニスの商人』、悲劇として『マクベス』『リア王』『ハムレッ卜』、史劇として、『ヘンリー4世』『ジュリアス=シーザ』など。ところでシェークスピアの最初の悲劇として知られる『ロミオとジュリエッ卜』の設定で二人の家が敵同士となっているのは、イタリアの皇帝党と教皇党の争いによる。ついでにいうと、二人の年は16歳と14(13だったかな)歳、出会ってからやることやって死んでしまうまで、僅か6日。これだからイタリア人は…というようなことが川原泉のマンガで指摘されていた。なるほど。



グーテンベルク(1394-1468)

ヨーロッパの活版印刷術の発明者とされるが、実は発明者にかんしては他にも様々な説があって完全な定説とはなっていない。マインツの貴族の生まれで、金細工職人となり、印刷術にとりくんでついに印刷業をおこし、まず聖書を出版した。



コペルニクス(1473-1543)

16世紀にヨーロッパ近世においてもっとも早く地動説を唱えたポーランドの聖職者。“黄金の世紀”と言われるポーランドの16世紀ルネサンス文化の繁栄を代表する人物である。ポーランド王とドイツ騎士団の抗争の調停などにも活躍。1530年『天体の回転について』という論文で地動説の考えを著した。このことから、ものの見方が根本から変わってしまうことを表す「コペルニクス的転換」という表現が生まれた。



ブルーノ (1548-1600)

イタリアのドミニコ派の修道士であったが、コペルニクス地動説に注目し、地動説と、その影響を受けて独自に展開した汎神論を唱える。その説が異端視されると、1576年法衣を捨ててイタリアを脱出し、スイス・フランス・ドイツ・イギリスと教会の追っ手を逃れながら、自説を説いてまわる。その結果地動説が世に広く知られ、地動説が教理上の大間題として浮上してくることになった。1592年帰国したところを捕らえられ宗教裁判にかけられるが、7年に及ぶ裁判、8年に及ぶ投獄生活にも自説を曲げず、ついに異端者として火刑に処された。



ガリレイ(1564-1642)

みずから作った望遠鏡で天体を観測し、地動説を実験的に論証(ただし完全な証明ではなく、地動説が完全に証明されるのは19世紀になってからである)『天文対話』を著す。しかしその説が1633年69歳のとき、宗教裁判所(異端審問所)により異端とされ、かろうじて火刑はまぬがれたものの、著述も出版も禁じられ、終身監禁状態となる。地動説を説いたこととともに、当時カトリック教会が「神によってつくられた完全無欠の球体」としていた月を望遠鏡で覗き、クレーターのでこぼこを発見してしまったことも、教会の心証を害したと言われる。自説の撤回をやむなく認めたとき、「それでも地球は動く」と呟いたというのは伝説であるが、心中を的確に表現していると思われる。死後も教会の迫害は続き、約百年間その死体は棺に納められたまま教
会の地下室におかれ、墓をたてることも許されなかった。ちなみにカトリック教会が彼に謝罪したのは、やっと1983年になってのことである。



ケプラー(1571-1630)

ドイツの天文学者。貧家に生まれてしかも7か月の早産であり、生涯病弱であった。ために教育を受け始めたのはやっと13歳になってからである。コペルニクスの地動説に感動して天文学の研究を志し、地動説を数学的に論証。ケプラーの法則遊星運行の法則あるいは惑星の3法則)を発見。一方で占星術の大家としても名声を博した。天文学は、当時はまだ占星術と強く結びついて一般に認識されていたのである。三十年戦争の最中に死去。三十年戦争を題材とした皆川博子の小説『聖餐城』に、重要な役割を与えられて登場する。



フランシス=ベーコン(1561-1626)

イギリス=ルネサンス期最大の哲学者・政治家。政治家としてはエリザベス女王にはうとんぜられ不遇であったが、次のスチュアー卜朝のジェームズl世の治下には大法官にまで出世。しかし、汚職事件をひきおこし、一切の官職・地位を奪われた上、一時ロンドン塔に幽閉された。その後は領地に隠れ住み、勉学と執筆活動に専念。主著『新オルガヌム』は観察と実験による帰納法の重要性を説いて、イギリス経験論哲学の幕開けとなり、近代科学の方法を確立したものと称賛される。自身も実験にいそしみ、雪中でうさぎの冷凍の実験をして肺炎になって死んだ。シェークスピアの作品は、実際にはフランシス=ベーコンの手によるものではなかったのか、というシェークスピア=(イコール)ベーコン説でも知られる。