黄宗羲(1610-1695)
明末清初の学者で浙江省の出身。経世致用を唱える考証学の祖の一人。陽明学を学んだが、空論化した明末の陽明学左派には批判的であった。父は政治改革を目指した東林党に属したが東林党への弾圧で刑死。師の陽明学者劉宗周は、明朝滅亡に絶食して殉死。彼も明朝滅亡後は復明運動に加わり、長崎まで援軍を求めに来て果たせず、復明の希望が断たれた後は、清朝からの仕官の勧めを断って帰郷。以後は学問に没頭し、徹底的な政治制度改革を唱えた。宰相制度の復活、学校制度の充実、学校における意見の中央政治への吸収などを唱えた彼の改革案は、一種の民本主義に基づいており、専制君主政治を痛烈に批判したその著『明夷待訪録』は清未の改革運動に大きな影響を与えて、中国のルソーと称賛された。もっとも本物のルソーよりも更に100年ほど早い人である。