スポーツにおいて、最高の対決あるいは最高峰のリーグなどといわれる試合が、必ずしもその名のとおり最高の試合になるわけではないということを、わたしたちは知っている。

 たとえば、サッカーでいえばヨーロッパ・チャンピオンズ・リーグ、02―03シーズンの決勝戦、ACミランユヴェントスは予定調和的にスコアレスでPK戦を迎えるという凡戦であったし、02ワールドカップの決勝、ブラジル対ドイツは、ドイツのGKカーン以外何も思い出せないような内容の乏しい試合だった。

 野球でいえば、2002年の日本シリーズは、その技量の差が出たわけではなく、たまたまチーム・コンディションの良かったジャイアンツライオンズに勝っただけの退屈なシリーズだった。

 プロレスでいうと、今年の1月4日、中邑真輔高山善広のIWGP・NWF統一戦は東京ドームの弛緩した空間に呑み込まれたまま、なんとなく決着してしまった。

 これら世紀の凡戦(とは、言い過ぎか?)に対し、素晴らしい試合、凄い試合、観ているものに感動を覚えさせてしまう試合が、そのレヴェルとは関係なく突然出現してしまうことがある。

 アテネオリンピック女子バスケットボールアジア予選準決勝。第1ラウンド1勝3負の日本が4戦全勝の韓国に挑むというかたちの試合。日本は韓国に第1ラウンドで67対99の完敗を喫している。韓国は2年前の世界選手権4位という、明らかに一枚上のチーム。常識的には韓国圧倒的有利という対戦であった。

 結果は既に各マスコミが大きく報じたように、再々延長の末、日本が韓国を振り切って、アテネオリンピックの出場を決めた。

 試合ははじめから最終局面まで最大点差8点という文字通りのシーソー・ゲームだった。前半4点リードされた日本が後半粘って追いつき逆転したが、日本2点リードで迎えた第4Qの最後のプレイ、韓国がフリー・スローを2本とも決めて延長戦突入。最初の延長、日本が2点リードして決着かと思われたが、ここでも最後に韓国が追いつき再延長。再延長では、疲れからなのか、とうとう韓国選手の足が止まってしまい、日本が終始リードしながら試合が終わっていった。

 日本は第1ラウンドのときと同じように、それほどプレッシャーが強くない場面でもシュートを外し、無理なパスを通そうとしては相手にカットされていた。技術的には、明らかに韓国よりも劣っていたと言わざるを得ない。それでも、常に白熱したゲーム展開になったのは、ディフェンスが格段に良くなっていたことと、リバウンドが攻守とも互角に渡りあえたからに他ならない。辛抱強く、集中して守り、ロウスコア・ゲームに持ち込んだ。戦術は日本が上回っていたといえる。

 ただ点数が拮抗しているだけでは、素晴らしい試合にはならない。それは単なる接戦にすぎない。そこに「勝利への意志」がなければ、だれも感動などしない。

 スポーツ選手ならば、当然勝つために努力しているのだから、だれもが「勝利への意志」を持っていると思われるだろうが、必ずしもそうではないことを、02サッカー・ワールドカップの日本対トルコで、わたしたちは学んでしまっている。あの試合の日本チームに、「勝利への意志」はなかった。「勝利への意志」はプレイとして表現されなくては意味をなさないのだ。

 もちろん、「勝利への意志」とは「根性」や「気合」といった安易な精神論とは無縁なものだ。「負けてもともと」とか「当たって砕けろ」といった言葉も、そこには存在しない。

 彼我の力を比較検討し、どのように戦い、いかにして勝利を手にするかというきわめて戦術的な発想からのみ、「勝利への意志」はあらわれる。つまり、それは常日頃からの練習からしか生み出せないのだ。

 格下のものが格上のものに勝つためには、「勝利への意志」に基づく「勇気あるたたかい」とわずかな「運」が必要だが、その「運」も「勝利への意志」がなければ掴むことはできない。「運も実力のうち」とはよく言ったもので、「運」を掴むためには掴むだけの実力が必要となるのだ。

 だから、こう訂正しなくてはならない。

 素晴らしい試合は突然出現してしまうのではなく、出現するべくして出現するのだ、と。見かけは突然だが、その試合のなかに、必然的に内在しているのだ。

 最後に、第4Q、延長と韓国がラスト・プレイで追いついていなかったら、たぶん、この試合は日本が強豪韓国を打ち破りオリンピック出場を決めただけの試合にすぎなかっただろう。その絶体絶命の場面で、二度とも追いついてみせた韓国の「強者の精神力」には、敬意をあらわさなくてはなるまい。


評点7.0(両チームのオリンピックでの活躍への期待も込めて)

※なぜ、とくべつ国粋主義者でなくても、国際試合において多くの場合、自国の勝利を願ってしまうのか?
いずれ考察するつもりです。