04年1月31日 またやっちまったよ。
 『嘘つき大統領のデタラメ経済』(ポール・クルーグマン、早川書房、2004)読了。ニューヨークタイムズで連載されたコラムをまとめたものだけど、世界的な経済学者が、公表されているデータという客観的な情報の分析によって、ブッシュ政権がいかにでたらめで危険な政策を行っているかを証明していく。いや、説得力があります。
 さて、この本で最も私がショックを受けたのは、本書出版に当たって新たに書き起こされた「革命勢力の台頭」というイントロダクション。ここでクルーグマンは、ブッシュ政権の暴走を止めることができなかった現象の説明を、“共和党”の重鎮キッシンジャーが若かりし頃の1957年に博士論文として執筆し、19世紀外交について論じた『回復された世界平和』という著作に見いだしている。

「その最初の数ページで、キッシンジャーは従来の安定した政治システムが、「革命勢力」つまり既存の体制の正当性を認めない勢力と相対した場合について書いている。論文はワーテルローの戦争後のヨーロッパの復興についてのものなので、キッシンジャーが頭に描いていた革命勢力とはフランスのロベスピエールナポレオンのことである。しかし、示唆だけに留まっているとしても、彼は明らかに、全体主義に対して効果的に対応できなかった1930年代の外交的失敗との類似を認めている。(類似を認めているといっても、道徳的に同価値だということではない)。私の意見ではホワイトハウス、上院・下院の両議会、司法の大部分、そしてマスコミの多くを牛耳っているアメリカの右派勢力は、キッシンジャーの言う意味での革命勢力だと言えるだろう。その勢力の指導者たちは、既存の政治システムの正統性を受け入れていないからだ」(同書p.28、文字強調は山内)
 
 おそらく、必要以上にスキャンダラスに取り上げられることを防ぐためだろう。全体主義、あるいは「1930年代の外交的失敗」についての言及は、以後封印される。が、これだけで十分。クルーグマンが現在の状況との対比で意識しているのは、ヒトラーのナチス政権の台頭に、イギリスを中心とする諸国が宥和政策で応じてしまった失敗なのだ。
 クルーグマンは、アメリカの右派勢力の目標を、彼ら自身が公言している情報から「基本的に失業者や弱者に対する社会的なセーフティー・ネットがなく、外交面では主に軍事力に頼り、学校では進化論を教えない代わりに宗教の授業があり、選挙は形式的なものでしかないような国、そんなアメリカにしようということなのだ」(同書p.30)と分析する。
 
 そして、その目標追求のあり方についても、減税政策や対イラク戦争に即して具体的に論じた後、

「ここにはある種のパターンが見てとれる。(中略)そのすべての政策においてブッシュ政権内の担当者は、これまでもずっと非常にラディカルな意見を抱いていたし、それは政権そのものがラディカルな目標を持っているということを示している。しかし、そのすべての事例において、ブッシュ政権はその意図は違うところにあり、それほどラディカルなものではないと主張し、穏健派を説得してきた。そしてそのすべての事例において、穏健派は融和策を採り、ブッシュ政権の要求を半分ぐらい受け入れ、政策のラディカルな面と妥協したという印象を薄めるよう努めてきた。若きキッシンジャーは正しかったのである。安定に慣れ親しんできた人々は、革命勢力に直面しても何が起きているのか信じられないため、それにうまく対抗することができないのだ」とまとめる。

 クルーグマンはこれ以上、言っていないので、私が言ってしまおう。
 
 これってナチスのやり口と全く同じだよ。

 ナチスは、政権をとる以前から、その過激な目標を公言してきた。フランスの打倒、ユダヤ人の排除、東方への生存権の確保、スラヴ系民族を世界の支配民族たるドイツ人の農奴にすること。しかし、彼らが政権をとり、実際にその目標に向かって動き始めたとき、イギリスのネヴィル・チェンバレンを初めとする指導者たちは、それに対応することが出来なかった。ヒトラー政権は、ラインラント進駐において、平和実現を主張し、ズデーテン要求では、民族自決権を口実にするとともに、これが最後の領土的要求であると釈明した。その全てをネヴィル・チェンバレンたちは受け入れ、宥和政策を展開してしまった。ナチスが、まさか本当に、公言してきた目標を実現するつもりだとは、信じられなかったためだ。どうだい。そっくりだろう。

 さて、お立ち会い皆々様。日本には過去のあやまちってやつがある。ナチスと組んで当時の国際秩序であるワシントン体制ヴェルサイユ体制打倒に動いてしまったあやまちだ。あの時、キッシンジャー−クルーグマンが言う“革命勢力”は、ナチスと日本だった。
 そして、今、国際連合を中心とした国際法による平和維持という、現在の国際秩序打倒をめざす“革命勢力”とは、すなわちアメリカのブッシュ政権である。そして、そのブッシュ政権の教書において、協力国として3番目に名をあげられたのは、日本である。つまり、われわれは、今回も、“革命勢力”のパートナーの役回りを演じているってわけだ。
 歴史は繰り返す。失敗に対する徹底的な検証がなければ、構造的な失敗は、構造的な要因によって、何度もしつこく繰り返す。イギリスの宥和政策にひきずられたあげく、ナチスに占領されたフランスと、二度の世界大戦を引き起こした責任を寄ってたかって指弾されたうえに、国家分裂の憂き目にあったドイツが、強硬にブッシュ政権のイラク戦争に反対したのは、そこにナチスと同じ臭いを嗅ぎ取ったからではなかったのか。逆にイギリスが宥和政策の失敗を繰り返してしまったのは、第二次世界大戦で戦勝国となったことで、宥和政策の失敗に対する検証が不徹底に終わっていたからではなかったのか。そして日本がまたしても“革命勢力”と手を結んでしまったのは、戦争にいたる失敗を徹底的に検証することなくきてしまったことの、当然の帰結だったのではないか。
 
 われわれは、またやってしまったのだ。
 
 ナチスと組んだあやまちを、また繰り返してしまったのだ
 
 どうする。

04年1月30日 『ボーア戦争』に続いて
 『大英帝国と帝国意識』木畑洋一編著、ミネルヴァ書房、1998)読了。編著の木畑洋一は、東京大学出版会の「新しい世界史」シリーズの1冊として書かれた『支配の代償』(1987)で、現在のイギリスにおける帝国主義時代の負の遺産を追求して以来、帝国主義の文化的側面(文化帝国主義)に着目してきた研究者。文化帝国主義は、帝国主義の時代に帝国主義国の人々に広く見られた、支配と従属の関係を無条件の前提として受け入れ、自分たちを支配する者とし、植民地の人々などを支配される者とする差別意識、大国意識、愛国主義の風潮を示す言葉であり、本書は、文化帝国主義研究の一環として「1989年に作られたイギリス帝国史研究会という研究グループのメンバーの一部が、イギリス帝国、帝国主義に意識の面から迫ろうとした試み」である。
 
 目次から各章のタイトル及び副題と執筆者をあげておくと、
 
 第一章 イギリスの帝国意識
  −日本との比較から 木畑洋一
 第二章 シェイクスピアとロックが見た在英黒人
  −17-18世紀の人種差別意識 平田雅博
 第三章 コロニアル・ナショナリズムと「帝国意識」
  −ウィリアム・モリニュクスのアイルランド議会独立論にみる 山本正
 第四章 生活文化の「イギリス化」と「大英帝国」の成立
  −18世紀におけるイギリス帝国の変容 川北稔
 第五章 東インド会社とヘイリー・ベリー校 浅田實
 第六章 ニューラディカルの帝国意識とアフリカ 竹内幸雄
 第七章 メアリ・ホールの植民地幻想 井野瀬久美恵
 第八章 植民地エリートの帝国意識とその克服 
  −ナオロジとガンディーの場合 秋田茂
 第九章 白人移民社会の形成と帝国意識
  −南ローデシアを中心として 北川勝彦
 第十章 イギリスの戦争と帝国意識 佐々木雄太
 第十一章 自治領化とコモンウェルス 旦祐介
 
 幅広い時代とテーマを扱っていて、一口に「帝国意識」といっても、重層的で多様な側面があることを見渡せる論文集になっている。ただ、その分、一つ一つのテーマについては、やや食い足りない感が残る。個別テーマについては、各論者の単著をどうぞという、入り口的な書ということか。

04年1月29日 大量破壊兵器
 なかったとアメリカ政府の前調査責任者がついに認める。国際連合の査察が、予想以上に効果的だったとも認める。それで、国際連合の承認を得られないまま攻撃に踏み切って、民間人を1万人以上殺害したことを、まだ正当化できると思っている感性が、本当に恐ろしい。そのアメリカのブッシュ政権に、世界は自分たちの味方だと、引き合いに出される国が日本であることが、たまらない。血にまみれた手と握手する我々の手にもイラク人の血がべったりとこびりつく。最悪のタイミングでの派兵である。

04年1月28日 一橋直前テスト
 立川校で一橋直前テスト。受験生は、いよいよ本当に最後の詰めの段階。

04年1月27日 久しぶりに
 本館の工事。中国の王朝都市の地図を作成。そうなんだよな。やらなければならないことは、まだまだいっぱいあるんだよな。

04年1月25日 ブエナ・ヴィスタ・ソシアルクラブ
 長男はバスケットの練習に、かみさんと次男は、足立区にあるまでランドセルを買いに行ったので、一人留守番をしながら、TUTAYAで借りてきたのDVDを観ていた。ヴィム・ヴェンダースの1999年の作品。ライ・クーダーのアルバムはもちろん持っているが、ヴェンダースのドキュメント映画の方は、恥ずかしながら、まだ観ていなかった。理由はいろいろあるけれど、突き詰めると「ブームに乗るのが嫌だった」というところに行き着いてしまうかもしれない。ヴェンダースとライ・クーダは、私の中では藤沢周平と同じ位置づけになってる。つまり、分かりやすい見かけの派手さにはやや欠けるが、高度な技術に裏打ちされた上質なエンターテイメント(日本で慣用的に使われる「芸術」では決してないぞ)を提供する職人的な作家。
 
 そういうのが、私は、痺れるくらい好きです。
 
 ところが、ヴェンダースは早くから、ポストモダンの知的アイテムのように扱われてしまって、素直に好きと言えない雰囲気になってしまったし、音楽の仙人みたいな存在で、実力の評価の割には全然売れていなかったライ・クーダのアルバムが、まさか100万枚を売り上げる日が来ようとは夢にも思わなかったので、数年前の時ならぬブエナ・ヴィスタブームには正直戸惑ってしまい、ファンとして正しい反応ができなかったわけだ。ヴェンダーズの映像や、ライ・クーダーがプロデュースするキューバ音楽を、ただただ体感しながら、ミーハーに、「すげええ」と言っていれば良かったんだよね。
 そういうわけで、遅ればせながら、「すげええ」と感動しつつを観ていると、「遠かったよー」とかみさんと次男が帰宅。注文だけのハズが、しっかり現品を抱えている。聞くと、見て1分もせず次男が「これ!」と決めてしまい、しかもたまたまその製品の在庫があったとのこと。流石に数々の賞を受賞した工房の作品である。なかなかよろしい。さて、その間もブエナ・ヴィスタは流しっぱなしにしていて、息子の相手をしてランドセルを手にとりながらも、父は心ここにあらず状態だったわけだが、それを敏感に察知した次男が一言。

「お父さん、それ、どこが面白いの?」

 いや、どこがと言われても。すまん。お父さんが悪かった。


04年1月24日 新年会
ようやく体調が快方に向かう。夕刻よりルミネ立川のにて、の所長んちと家族ぐるみで夕食会。時期的に新年会になるのだろうか。両家で呆れるほど飲み、かつ喰らう。

04年1月23日 こじらせたかな
立川校で論述の授業。ついでに懸案の添削をついに提出。ほっとしたのか、帰宅後、また熱がぶり返す。

04年1月22日 休みであって休みでは
空き日。何とかたどり着いたという感じ。昨年から持ち越していた論述の添削の残りを、一日かけてようやく仕上げる。

04年1月21日 熱を出すにはちょっとはやいぞ
幸いというか何というか、仕事が駒場校で夕方5時から8時20分までの2コマ。午前中はひたすら寝て身体を休める。熱の方は、なかなか下がってくれず。

04年1月20日 今度は自分が
朝一で松戸校。昨晩は早目に寝て、早朝4時頃置きだし、まだ終わっていなかった授業準備(なにしろ4コマ)の最後の仕上げをし、7時前には家を出る。かなり風邪がひどくなっていて、正直つらい。10時前にやっと帰宅。入浴後、やたら寒気がするので、検温してみると38度6分。

04年1月19日 テキスト会議
名古屋で11時からテキスト会議。会議そのものは順調に進んだのだけど、途中からどんどん喉がいがらっぽくなってきた。数日前から、喉と鼻と目に、しばらく忘れていた花粉症の兆候が出ていたので、花粉症だろうと油断していたら、どうやら風邪らしい。帰りの新幹線では、悪寒もしてきたので、帰宅後、ためしに熱を計ってみたら37度5分ある。明日は、松戸で朝2コマやった後、移動して駒場で2コマという、たまたま1月では唯一の4コマの日程の日だったり。

04年1月18日 久しぶりに休みの日曜日だったのに
 昨夜から怪しげな咳をしていた長男が、朝になってみるとやっぱり発熱している。府中市の休日診療施設で診てもらったところ、インフルエンザではないということだったので少しほっとする。 ただ、けっこう重い症状で、一時的とはいえ39度を越える熱が出て、食欲もない。そこで、しまい込んでいたジューサーをひっぱり出してきて、リンゴやらイチゴやらで生絞りジュースを作ってみる。これは好評。兄の風邪の巻き添えで、楽しみにしていたプールその他の外遊び計画が吹っ飛んでしまってご機嫌斜めの次男も、少し機嫌を直す。次男には、子供たちに人気のを読んでやることで対応。そうしていると、寝ていた長男も起き出してきたので、長男にも読んでやる。結局、ゾロリシリーズばかり5冊連続読み聞かせ。

04年1月17日 センター試験など
久しぶりに雪が舞う天候の中、近藤さんに来てもらい、『麦酒瓶を砕く−中村富由彦作品集』の表紙を作成。夕方までの間に、何とか仕上げる。といっても、作業したのはもっぱら近藤さんで、山内は環境を提供しただけだが。今度こそ、完成は近い...といいな。
 
 雪が舞う天候と言えば、雪になることがなぜか多いのが、センター試験。今日は、センター試験の実施日であったので、の問題・解答速報から、問題をチェックしてみた。今年の問題も、第一問のナショナリズムに象徴されるように、「新しい世界史」の視点で、リード文が作成されている。これで3年連続で、完全にこの傾向は定着した。
 「新しい世界史」を一言で説明せよと言われるとちょっと困るが、ここでは「戦後史学」以降の世界史の研究動向を総称して「新しい世界史」と言っていると了解して欲しい。では「戦後史学」とはなんぞやと言うと、今から20数年前まで日本の歴史学界で主流だった歴史学で、「発展段階説」と「一国史観」に基礎をおくことが特徴であったが、現在では、様々な批判にさらされて、急速に姿を消しつつある歴史学であると。
 私は、センター試験のリード文が3年連続で「非戦後史学」だったことには、全国の高校世界史教育者に対して、戦後史学はすでに終わっているのだから、戦後史学に基づく教育はやめるようにという大学側のメッセージが込められているのだと考えている。
 というのは、大学の入試問題、特に論述問題などでは、ネットワーク論や主権国家体制論やナショナリズム論など、「戦後史学」の視点では手も足も出ないような問題が既に主流になっている。教科書も、東京書籍や帝国書院など、学界の新しい研究動向を踏まえ、「戦後史学」から脱却した教科書が出版されるようになっている。そしてついに、「戦後史学」の象徴であり、最後の砦であった山川出版の「詳説世界史」も、新課程移行にあわせて全面改訂に踏み切った。入試問題からも、教科書からも姿を消しつつあるのが、「戦後史学」であるわけだ。
 ところが、風前の灯火の「戦後史学」が、しつこく生き残っている場所がある。戦後史学に慣れ親しみ、それに基づいて教育を進めてきた高校世界史教育の現場の教員の中に、である。生身の人間の認識というのは、変えようと意識して努力しない限りそう簡単に変わるものではないし、従来のやり方を否定する形での努力というのは精神的にも非常にしんどいものなので、当然と言えば、これは当然。
 が、入試問題が、完全に新課程対応に、つまり「非戦後史学」に移行してしまった時、そうした「生ける戦後史学」に「世界史」を教わってしまった生徒は、たまったものではなかろう。
 だからこそ、大学側は、入試においてもっとも影響力があるセンター試験の問題で、「新しい世界史」を全面に打ち出したリード文を作成することで、高校教育の現場の教員に対し、「戦後史学」が終わったことを気づかせようとしているのではないか、「新しい歴史学」を勉強するように、と呼びかけているのではないか、と思うのである。
 問題は、今まで自分たちが慣れ親しんできた歴史学が、「戦後史学」という相対的なものであったことすら知らない人が、いっぱいいるということなんだけど。

04年1月16日 『ボーア戦争』
『ボーア戦争』(岡倉登志、山川出版2003)読了。「世紀末転換期における国際政治の動向のなかでこの戦争を考察してみたいという歴史家の意志よりも,石油利権のために強引にイラクを侵略したアメリカ帝国の現実と重ね合わせて一世紀前の大英帝国の暴挙を振り返ってもらいたいからである。」と筆者自らが後書き(p.239)で述べているように、アメリカの対イラク戦争を念頭に、アメリカに先行する「帝国」であったイギリスのボーア戦争を、「帝国の戦争」の視点から分析した本。「アメリカ帝国」と「大英帝国」の比較は、これからも出てきそうだが、本書が指摘するように、イラク戦争が、石油、ボーア戦争が金とダイヤモンドを求めたものであること、イラク戦争の正当化のために「民主主義の普及」が、ボーア戦争の正当化のために、「ボーア人の人種差別の打倒」が唱えられたことなど、両戦争には共通点が多い。ついでに、人種差別の打倒を唱えたボーア戦争の後、ボーア人への妥協からかえって人種差別体制は強化され、それは悪名高いアパルトヘイト政策につながっていくわけだが、その伝で行くと、民主主義の普及を唱えたアメリカのイラク戦争は、かえって中東に混乱と破壊とテロをもたらす結果になるのは理の当然ということになるのだろうか。


04年1月15日 快晴
日帰り各駅停車の旅。といっても、ただひたすら電車に乗って、雑誌を読んで本を読んで景色を見て、ipodで音楽を聴きながらビールを飲んでるだけ。朝8時20分に分倍河原を出て、南武線で川崎。川崎から東海道線で沼津に向かう。熱海あたりで、冬晴れの凪の海。沼津からは身延線の直通電車で身延を経由して、甲府へ。身延線の富士の宮では、雲一つない快晴に屹立する富士を間近に見る。甲府からは中央本線で立川。立川から南武線で分倍河原。帰りついた時は、ちょうど6時頃。贅沢。

04年1月12日 気がつくと
02年1月8日が、工房李香本館のオープンだったので、いつの間にか2周年が過ぎていた。その割に全然工事が進んでいないのは、要反省。それでも、遅々として増築していく予定ではあります。。。

04年1月11日 まあ、しょうがないと思うのですよ
久しぶりの完全オフ。風呂に入るときにゴーグルつけて潜るくらい、欲求がたまっていた次男の望みに応えて、朝10時からほぼ1カ月半ぶりのへ出発。といっても、午後1時からは、長男が学校の友達5人くらいと集まって遊ぶ約束をしていて、そこに次男も混ぜてもらえることになっていたので、プール自体は1時間弱で切り上げて帰宅した。んで、昼食後、予定通り息子たちは遊びに出掛ける。「手が離れるようになる」というのは、こういうことを言うのだなと実感しつつ、空いた時間に何をしようと思う間もなく、猛烈な睡魔に襲われ、爆睡。やりたいこと、やらなければならないことの山はいまだうずたかく積まれたままで、しかも刻々と高さをましているのだけど。

04年1月10日 独善はいかんと
本日の仕事は、松戸校で17時10分開始のセンターテストだけなので、午前中は空き。うちのかみさんは仕事関係で朝8時からお出かけで、私が出て行くのと入れ違いで帰ってくるスケジュールとなった。息子たちは、両親が仕事だろうがなんだろうが、三連休の初日で休みである。理のしからしむるところ、子供たちの面倒みるのもバトンタッチとなったわけだが、諸般の複雑な事情が重なって、次男の友達が突然、11時頃から遊びに来ることに。お握りなどもたせていただいたのだが、そこはそれ見栄もあり、急遽、鶏肉のトマト煮なぞ作る。鶏肉とスライスしたタマネギを炒めて、缶詰めのホールトマトに分量の水、コンソメスープの素を放り込んで後は20分くらい煮るだけの、超お手軽料理。失敗はまずないし、その割に見た目もなかなか。で、自信満々で子供たちに出してみたところが、お客さんの次男の友達は、トマトが大の苦手なのであった。「○○ってトマト食べられないんだよねー」(次男)。「そんなことないよー。食べてみるよー」(○○君)
「やっぱりだめだー。ごめんなさい」(○○君)。
 いや、ごめんなさいはこっちだよ。

04年1月9日 やっと
 一日、来年度のテキスト関係の仕事に取り組む。朝6時、夜が明けようとする頃(って本当は10日だよ)なんとかかんとかやっつける。それでも今回は、間に4時間ほど睡眠時間を取る余裕があった分、前回よりまし。というデータベースソフトで、過去の入試論述問題のデータを整理(っつーたってまだ数年分しかないが)してきた成果が出てきた。ただ、ここにも悩みはあって、OSの構造上、データ整理能力は「超漢字」の方がマックより優れているので、データは全て「超漢字」で整理したい。なのに、「超漢字」の付録の簡易データベースソフトは、容量その他能力的な問題があって使えない。帯に短し。

04年1月8日 あ〜あ
 一日、来年度のテキスト関係の仕事に取り組む。終わらず。

04年1月7日 小室直樹『経済学をめぐる巨匠たち』
 横浜校への電車の往復中に読了。小室直樹は奇矯な言動が話題となり、漢語を多用した独特の「小室節」の文章で好悪が分かれる人だけど、ベースはすさまじい勉強量で人文社会科学を体現する正統派の学者。私は確か1979年だか80年だかの高校生の時に『ソヴィエト帝国の崩壊』を読んだのが最初の小室体験で、これは衝撃だった。当時のソ連は、アフガニスタン侵攻を始めたばかりでアメリカと新冷戦の真っ最中。オイルショックで石油が値上がりしたおかげで石油輸出収入で懐が潤い、まだまだイケイケ状態。そんな時に「ソ連は必ず崩壊する」と(現在自由民主党の参議院議員をつとめるネズミ顔の国際政治学者は、1989年の東欧革命の直前まで、東西冷戦体制はまだまだ続くと主張していた)断言した慧眼は、いくら賞賛してもし過ぎることはないと思う。今回の『経済学をめぐる巨匠たち』も、個人的に啓発されることが多かった。
ちょっとまとめきれないので、内容に関してはまた後日。

04年1月6日 冬期講習終了
 やっと冬期講習終了。12月16日からの5日講習1日空きサイクルは、流石に四十郎には厳しいものがありました。が、明日は早速直前講習の単発のセンター実戦模試が横浜であって、1月9日にはテキストの〆切が。

04年1月5日 陳独秀
 昨年の12月26日午前。愛機パワーブックG4にて、Quarkというレイアウトソフトで午後からの駒場校「一橋論述」講座で最後に配る予定のおまけプリントを泥縄式に作成していた時のこと。あと少しで完成というところで「陳独秀」と打ち込んだその途端に、フリーズ。再起動。こうしてネタにしていることで御明察の通り、もちろん「保存」はかけてませんでした。データはいずこともなく消え、残された時間では最初から作り直すことはかなわず、結局おまけプリントは、講座をとってくれた人には後日郵送ということで決着したのだった。

いやあ、へこんだへこんだ。

さて、本日、2回目の一橋論述が立川校で入っていることもあり、おまけプリントの作成に再チャレンジ。できたプリントは立川校で最後の授業の時に配ると同時に、駒場校に送って郵送してもらう予定。順調に作業を消化し、そしてあと少しで完成というところで「陳独秀」と打ち込んだその途端に、フリーズ。

・・・なぜ?

再起動後、三度目の正直で、また最初から(アホです)データを作り直し、今度は流石に学習効果が働いて、「陳独秀」の直前に保存。で、「陳独秀」と打ってみた。
フリーズ。
1回目の時は、Quark以外のソフトも立ちあげていたんで、メモリ不足かソフト間のコンフリクトかと思ってたんですよ。まさか「陳独秀」が犯人だったとは。
陳独秀
日本に留学し、1905年の中国同盟会結成に加わる。1911年の辛亥革命にも参加し、袁世凱独裁体制の成立で一時日本亡命。1915年帰国し上海で『青年雑誌』創刊。翌1916年『新青年』と解題。またこの年北京大学の教授となり、「民主と科学」をスローガンに新文化運動(文学革命)を主導。1919年の五・四運動にも、指導的役割を果たし、名声を得る。1921年上海で中国共産党結成の中心となるも、1929年路線対立から共産党を除名。1931年に国民党に捕らえられ、日中戦争勃発後の1937年8月まで入獄。釈放後は、共産党批判を繰り返し、1942年病死。

04年1月3日 曙
風呂に一緒に入っていた次男が、「お父さん、曙みたい。ぷにょ、ぷにょ」といいながら、私のお腹をプッシュプッシュ。なんで子供はこう、身もふたもなく痛いところを突くかな。
新年度の目標が一つ定まった。脱「曙」。

04年1月2日 近づいてくるのは
4ターム目突入。冬期講習はこれで終了。あと少し。でも、来期のテキストの〆切までもあと少し。。。

04年1月1日 あけましておめでとう
商売柄、年があらたまった実感がほとんどないというのが実感だったりします。が、それゆえに新年の挨拶その他で、世間様の常識とずれてしまい、思わぬ不義理をしてしまっているかたが多々いらっしゃるような。そういうわけですので、心当たりがおありのかた、この場を借りてお詫び申し上げます。ごめんね。
 
 ここ数年、年に一度の贅沢で、「大晦日はホテルに一泊」を恒例にしていたのに、休みが1月1日だけになってしまった今シーズンのスケジュールではそれもできず、その代わり、へ。温泉に入って、大広間で昼食をとって、カラオケルームで家族カラオケ。けっこうお手軽に旅行気分になれたので、これはこれでよかったかも。