フィヒテ(1762-1814)

カン卜の系譜をひくドイツ観念論の哲学者。ナポレオン占領下のベルリンで1807-08年にかけて有名な「ドイツ国民に告ぐ」の連続講演をおこなってドイツ人の愛国心を鼓舞し、1809年フンボル卜らの努力でベルリン大学が創設されると、その初代総長となった。ここでフィヒテが「ドイツ人」を「ドイツ語を話すもの」と把握し,ドイツ民族にドイツナショナリズムの根源を求めたことは,ナショナリズムに強く「民族」の概念を導入することになった。アメリカ合衆国の成立においては,アメリカ独立の理念を共有するものは(例え事実上白人に限定されていたにしろ)広くアメリカ国民であり,フランス革命においても,「革命の祖国」としてのナショナリズムには,広く開かれた一面 があった。しかし,民族に基盤を持つドイツナショナリズムのあり方は,エスニックな感情を喚起して少数民族の迫害や,他民族の否定に向かう側面を有してしまう。事実,ウィーン体制下でドイツ国家の統一と自由を求めたドイツ学生組合ブルシェンシャフト)は,同時にユダヤ人迫害運動の担い手ともなっていくのである。


シェリング(1775-1854)

カン卜が創始しフィヒテが展開したドイツ観念論哲学の代表者の一人。15歳でチューリンゲン大学に入学を許された早熟の天才で、ここで5歳上のへーゲルやヘルダーリンと友情を結ぶ。自我と自然の合一を主張する同一哲学を主張するが、はじめは彼の影響下にあったへーゲルが弁証法哲学を大成するとドイツ哲学界におけるその存在は薄れてしまった。へーゲルの死後、へーゲル批判を明らかにするが、へーゲル哲学全盛の中ではもはや影響力を持つことはなかった。


ヘーゲル(1770-1831)

ドイツ=ロマン主義哲学(ドイツ観念論哲学)の大成者で弁証法哲学を完成。はじめはシェリングの影響を受けたものの、やがてそれを脱してシェリング以上の名声を確立。ベルリン大学講師の職を得たショーペンハウエルが意図的にベルリン大学教授の彼と講義の時間を合わせたところ、学生が全て彼の講義に流れてショーペンハウエルにショックを与えたというエピソードが示すように、ヨーロッパ哲学の最高蜂と自他ともに許すようになり、ベルリン大学の総長にもなった。もっとも30半ば過ぎの頃に下宿先の未亡人と密通して不義の子をなし、この母子を捨てて逃げ出すというような事件もおこしている。


フォイエルバッハ(1804-1872)

へーゲルの弟子でへーゲル左派を代表する哲学者であったが、後に唯物論の立場をとってへーゲルを批判するようになり、マルクスに大きな影響を与えた。その思想故に教会と国家の批判をあび、大学教師の職に就けず、妻の経営する製陶工場に収入を頼っていたが、晩年にその工場が倒産し、貧窮のうちに生涯を終えた。


ベンサム(1748-1832)

最大多数の最大幸福”という言葉を掲げ、個人の幸福の追及と社会全体の福利の調和を目指す功利主義哲学を創始。第一次選挙法改正にも努力した。看守の人数が少なくてすむ円形刑務所の設計に熱中したり、自らの遺体をミイラとしてロンドン大学に残すなどの奇行でも知られる。もちろんそのミイラは現存している。


コント(1798-1857)

経験によって確かめられた事項にのみ知識の源泉を見いだそうとする実証主義哲学を創始し、社会学の祖とされる。空想的社会主義者サン=シモンの弟子である。「はじめて『社会学』を打ち立てた哲学の天才オーギュスト=コン卜は背低く足短く、その醜さの自覚から27歳のとき売春婦と結婚した。彼は『実証哲学講義』の大著にとりかかりながら、貧しさのため妻が昔の商売で金を稼いでくるのをとめることが出来ず、その矛盾した生活の苦悶から精神異状を呈して、いちどセーヌ川に投身したほどであった」一以上人間臨終図鑑より引用。


スペンサー(1820-1903)

ダーウィン進化論を社会現象にもあてはめ、社会進化論を説いたイギリスの哲学者。科学と宗教を調停して科学者を宗教の呪縛からときはなったことでも有名である。しかし進化論の社会現象への適応は、特に19世紀末の欧米において俗化されて広まり、例えば適者生存や生存競争などの考えが、富める者の貧しいものへの優越、白色人種の有色人種への優越、ヨーロッパによるアジア・アフリカ植民地化の正当性などを弁護するものとして一般化されて、多大な悪影響を今に残している。


キェルケゴール(1813-1855)

『あれか・これか』『死にいたる病』などで余りにも有名なデンマークの哲学者。ニーチェとともに実存主義哲学の先駆者とされる。へーゲルの哲学体系が個人の救済につながらないことを批判し、全体の真理でなく個人の真理こそが重要であるとした。内面的な葛藤から1840年レギーネ=オルセンと婚約しながら、翌年それを破棄。以後独身のまま42歳で死んだ。


ショーペンハウエル (1788-1860)

インド哲学の影響を受け、『意思と表象としての世界』を著して“世界の本質は盲目的な生への意思である”とし、厭世哲学を展開。しかし彼は厭世哲学の帰結として自殺を称賛しながら、自身の生活はカン卜にならった規則正しいもので、昼と夜を街のレストランでとり、冷水摩擦をかかさず繰り返して72歳まで長命した。


ニーチェ(1844-1900)

19世紀最大の哲学者にして現代思想にもっとも大きな影響を与えている人物。“神は死んだ”と叫び、キリス卜教を弱者の道徳として否定。ニヒリズムを克服する超人を説いて超人哲学を樹立『ツァラトストラはこういった』(岩波文庫のものが訳がこなれていて読みやすい)は青春の必読書。実生活は不器用でルー=サロメ(後に恋人として詩人リルケに多大な影響を与える)と友人パウル=レーとの奇妙な三角関係は不幸な結末を迎え、生涯を独身でとおす。あわれみこそが、精神的悪の根源であるとしながら、1890年の1月、御者によってむち打たれる馬を見て激高し、馬の首を抱きしめて失神。昏睡から醒めた後は完全に発狂し、生涯の最後の10年を廃人として過ごした。原因は遠い青年期にかかった梅毒が、脳にまで進行した脳梅毒ではないかといわれている。ちなみに20世紀最大の哲学者といわれたフーコーの死因はエイズである。


マルサス(1766-1834)

食糧は算術的(101→102→103)にしか増加しないが、人口は幾何級数的(100→200→400)に増加するという論理で貧困の原因を説明。解決策として貧困階級の増大こそが問題であるのだから、貧困階級に対する保障をやめて餓死する者は餓死するにまかせるのがいいという、なかなかゴーマンな提案を行う。代表作は『人口論』。穀物法には食糧確保重視の立場から賛成国際分業の効用を重視して穀物法に反対したリカードと論争し、その論争の過程でリカードとともに古典派経済学を確立した経済学者でもある。もっとも人口増加を恐れた彼の血統は彼の子の代で絶え、その直接の子孫は残っていない。


リカード(1772-1823)

古典派経済学者。商品の価値はそれに投入された労働の総量に等しいとする労働価値説は、マルクスにもとりいれられた。というか,マルクスの経済学的主張のほとんどは、リカードに負っている。株取引に従事して財産をつくった後に下院議員となり、スミスの『国富論』に接して経済学に興味を持ち、マルサスなどと論争しながら自己の立場を確立していった。特に国際分業を重視し、自由貿易の効能を数量的に証明したことは、現在のいわゆる新自由主義の貿易理論などにも決定的な影響を与えている。


J.S.ミル(1806-1873)

父はベンサムの門弟兼友人で、功利主義派あるいはベンサム派とよばれる一派を確立したジェームス=ミルである。幼少より父の厳しい教育を受け、3歳でラテン語、8歳でギリシア語を学んだ。功利主義者としては幸福に量だけでなく質的な差があるとし、“満足した豚であるより、不満足なソクラテスであった方がいい”という言葉を残す。またコントの実証主義を導入し、古典派経済学を集大成した業績も重要。20代半ば頃よりテーラー夫人と知り合い交際を続けたが、結婚できたのは彼女の夫が死んだ20年後である。しかしこのことが世人ばかりか家族や友人の非難を受けたために二人だけの生活に閉じこもり、彼女の示唆と協力で代表作『自由論』を書き上げるも、夫人は結婚7年目に死んでしまう。この経験を基に書かれた『婦人の隷従』は、婦人解放史上の記念碑的作品とされている。1873年に「私の仕事はなし終えた」の言葉を残して死んだ。


リスト(1789-1846)

古典派経済学に対し、民族の歴史的特殊性を重視する立場から歴史学派経済学を創始。主著は『政治経済学の国民的体系』。自由貿易を説くイギリスの古典派経済学に対して、産業革命がイギリスより遅れたドイツ経済を先進国から守るため、発展段階の遅れた国民経済は国家の保護を必要とするとして保護関税貿易を主張。またドイツ関税同盟の結成にも尽力した。しかし彼はその自由主義思想ゆえに故国に入れられず、ー時アメリカに亡命を余儀なくされ、晩年もその政策に対する理解を得られずまた官僚主義を批判し続けたために迫害され、孤独と病苦の中でピストル自殺をとげた。


サヴィニー(1779-1861)

法は各民族に固有なものであるとして、人類に普遍的な法を考える自然法思想や啓蒙主義思想を排撃し、歴史法学を主張。主著は『現代ローマ法の体系』。ドイツにおけるロマン主義の高まりと民族主義の高揚、そこから由来する歴史研究の傾向を代表する人物であり、時代の旗手としてプロイセンの立法大臣やベルリン大学の総長などの要職を歴任した。


ランケ(1795-1886)

19世紀最大の歴史家と言われ、史料を厳密に科学的な手法で分析して“それは本来いかにあったか”の解明をめざす近代歴史学を確立し、『世界史』を著す。ただ、彼の歴史学は宮廷中心の政治史に終始するもので、民衆がいかに生き、何を考えていたのか、というような視点は欠如している。


マイヤー(1814-1878)

ドイツの物理学者。エネルギー〈不滅〉保存の法則の発見者の一人。もともと医者で、ラヴォワジエ質量不変の理論から考察をすすめて、エネルギー不滅の着想を得る。独力で研究に没頭し、1842年には早くもエネルギー不滅の理論を明らかにしている。しかし彼の研究はなかなか認められず、研究誌におくる論文もほとんど掲載されなかった。そして1850年代になってその先駆的研究が評価され始めた時には、彼は家庭の不幸が原因の精神病で精神病院での生活をおくっていたのである。


ヘルムホルツ(1861-1894)

1847年『力の保存について』という画期的な論文を著し、マイヤーとともにエネルギー不滅の法則の発見者とされる。マイヤーがこの理論に没頭し、次々と論文を著しながらほとんど相手にされなかったのと対称的に、彼は物理学者であるとともに生理学者であり、というよりも自然科学のあらゆる分野に独創的な研究をおこなう指導的な科学者で、エネルギーの不滅の法則は、彼の広範な業績のごくー部に過ぎない。


ファラデー(1791-1867)

19世紀前半に電磁気学の基礎を確立した物理学者。中学の理科の授業で、左手の法則・右手の法則をやったはず。デビューした頃のビー卜たけしがネタに使っていた。ロンドン郊外の鍛冶屋の子として生まれ、13歳で製本屋の小僧に出され、そこで仕事のかたわら本を読みふけって自然科学に志し、苦学の末、王立研究所の助手に採用。優れた業績をあげて教授にまで進んだ。科学入門の書に名著『ろうそくの科学』がある。